愛と自由


 貞節だとか、純潔などと言うとすぐに、先ず古いとか、封建的と言われ、次ぎに、自由の抑圧だと言われる。
 純潔を守るなんて言うと、処女なんて今時・・・。早く捨てなさい。経験しなさいと煽動されるのがオチだ。
 でも、ここで言う自由というのは、何に対しての自由だというのだろうか。
 快楽(性)もっと露骨に言えば性行為、又、それから得られる快感に対する自由なのか。愛(精神的な意味での)に対する自由なのか。答えは自ずと明らかである。
 ここで言う自由とは、性の解放を意味している。肉体的行為に対する抑圧からの解放を意味するのであって、精神的行為に対する抑圧からの解放を意味しているのではない。
 では本来の自由、解放とは何か。
 古来、人間は、肉欲からの解放を求めていたのであって、愛による束縛から逃れようとしていたのではない。それ故に、多くの宗教が禁欲をその戒律の中心に置いたのではないのか。本来の自由の意味は、むしろ肉欲から解放されることなのである。だから、純潔が求められた。

 我々は、自由だ、平等だ、愛だと騒ぎ立てる前に、先ず、その正しい意味を理解する必要がある。その上で、自由や恋愛について語るべきなのである。
 そう言うと、そんな難しい議論は辞めようと言う。堅苦しい事は言わないで、今が善ければいいではないかという。それは、誤魔化しである。
 自由とか愛の持つ言葉の意味を明らかにしないで、自由や愛について語ったところで虚しいし。
 自由や愛の意味について曖昧なままにして、やれ自由だ、やれ愛だと振りかざす者達に、何かしらのいかがわしさを、私は、感じる。

 自由や平等、愛という言葉が、今、日本で満ちあふれている。
 自由とか、平等、人道主義、博愛、民主という言葉を使えば、大概の相手は黙らせられると思っている。
 だから何かというと、言論の自由とか、性の解放など声高に叫ぶ人間がでてくる。まるで、水戸黄門の家来が最後に印籠をかざして、この紋所が目に入らないのかと見得を切るの変わりがない。自由とか、平等と言われると、今の日本人は、訳もなく平伏してしまう。
 そのくせ、自由とは何か。平等とは何かという議論になるとそんな難しい事と言って逃げ出してしまう。愛については、尚更のことである。肝心な事を曖昧にして、都合よく議論を進めようとするのは、日本人の悪癖である。それではいつまでたっても議論がかみ合わない。
 いつから、日本人にとって、自由、平等、民主というのが不変的真理となり、絶対的正義となってしまったのであろう。少なくとも、戦前においては、自由主義者は、過激派の一種ぐらいにしか見られていなかったのにである。
 戦後の知識人や言論人は、自由や平等、愛と言った概念に不変的な真理を見出し、そこに居心地の良さを見出してきた。そして、良しきにつけ、悪しきにつけ、進化論的一方通行に歴史を位置付け、全ての価値基準を進んでいるか遅れているかに還元してしまっている。
 大体、日本にとって自由、平等、愛という概念は、在来の概念ではない。自由、平等、愛という思想は、西洋から輸入した思想である。明治維新以前、日本人は、自由を理想としたことも目標としたこともない。また、太平洋戦争で負けるまでは、自由という思想に対し、懐疑的、否定的でもあった。それが戦争に負けたとたん、いつの間にか自由は、確固不動の理想、真理になってしまったのである。
 外来の思想である自由や愛に相当する言葉は、古来なかった。だから、自由とか、愛という言葉はある意味で翻訳語である。翻訳の過程で、原語の意味も、又、翻訳に当てられた日本語、本来の持つ意味も、変質し、意味不明な曖昧な言葉になる。これは、外来語を好んで使うもののある種のいかがわしさである。そう言った日本人のいい加減さは、だらしなさにつながるのである。外来の概念を意味もわからないまま、鵜呑みにして崇拝するのは、それ自体日本人の敗北主義である。卑屈である。自由という限りにおいて、何が自由であり、何が自由でないかを、自分の言葉で明らかにする責務がある。

 まず第一に言えば、自由とは何か。自由という言葉の前提は、近代的な個人主義の成立が前提となる。この近代的な個人主義は、個としての個人と全体としての社会の緊張関係の中で成立している。それは、多分に西洋の歴史的、地理的、文化的要素に左右されている。中でもキリスト教的一神論の影響下にある。また、近代科学の圧倒的な影響下にある。特に、進化論の影響が大きい。それをそのまま日本に持ってきて、日本に当て嵌めようとすることがどだい無理なのである。日本人の生活の基盤は、家であり、家族である。家を中心とした思想しかなかったのである。その家族の延長線上に義理、人情の世界を横糸とし、縦糸として儒教的な忠と孝の思想があったのである。
 それは、神対自己、国家対自己と言った一対一の関係ではなく。一対多、多対多、多対一の関係が基本なのである。西洋的自由と日本的な自由とでは自ずと違う。
 それは、個としての自己に対する全体としての社会や国家との相克によってもたらされる個人である。愛は葛藤なのである。それ故に、自由と平等が常に一体として問題となるのである。
 近代的個人主義とは、神と自己、社会と自己との一対一の関係を前提として成り立っている。自由とは、この一対一の束縛からの解放をも意味していた。それは、厳格な一夫一婦制からも見て取れる。日本人は、一夫一婦と言ってもかなりいい加減である。少なくとも夫婦関係の間に神は介在しない。しかし、一神教であり、契約社会である欧米は違う。日本人の結婚観は、あくまでも人と人との関係の上に成り立っている。介在するとしても家と家くらいである。それに対しキリスト教的世界では、神が介在するのである。つまり、結婚というのは神との契約であり、個人と個人との契約ではない。日本人が自由になりたいとする対象はせいぜいいって家であるが、欧米人は、神や神を背景とした世界なのである。だからこそ、英国は、国王が婚姻関係から自由になりたければ、新教を創らざるをえなかったのである。その様な厳格さは日本にはない。だから自由の意味が違うのである。日本人が自由になるというのは、家と家のしがらみや因習、因縁みたいなものであって明確な社会体制や思想価値観に対してではない。

 勝手気儘に性行為がしたいから自由になりたいと言うだけである。それは性の解放と言うよりも、欲望の解放に過ぎない。それを自由とは言わない。

 自由の根本は、自己の確立なのである。自己の確立だけならば、日本にも昔からある。問題は、自己の確立が、社会的な関係に結びつかなかったことにある。それが日本人の未成熟な部分である。しかし、反面、日本的な個人主義の萌芽でもある。

 以前、般若心経を扱った本で、自在という言葉の方が、今で言う自由という言葉の意味に近いと書かれていたのを読んだことがある。自由という言葉には自由自在という意味があり、自在という言葉の方に重きがあったというのである。自由にすると言うよりも自在にするという方が正しい。つまり、本来は、自由というのは、自在になることを意味する。そして、自由というのは、勝手気儘にすると言う意味で使われていた。だから、自由というと日本人は、勝手気儘にするのである。しかし、自由の本質は自己の確立であり、自己の内面の規律に基づく意志を自由意志というのである。それ故に、自由な愛は、自己の内面の規律こそ問われるのである。それが、近代的自由である。勝手気儘という意味ではない。勝手気儘という言葉には、他者がない。愛すべき他者も対立すべき他者もない。他者のないところに自由はない。自由になりようがないのである。自在になるしかないのである。
 確かに、我々にとって自由という言葉必ずしも身近な言葉ではなかった。我々が自由と言うことを言う時、単純に束縛から解放されたいという程度の意味でしかない場合が多い。つまり、束縛をする者は何でもかんでも悪いという意味に捉えかねない。それで、自由というのは、何でもやって良いという事とは違うといったトンチンカンな戒めを言う者まででくる。逆に言えば、自由恋愛というのをフリーセックスとか、性の解放と同じだと思いこむものまででくる。

 自由という概念が存在しないように、恋愛という概念も存在しない。あるのは、家と家との取り決めである。確かに、源氏物語のような世界は存在した。しかし、それでも一対一の関係ではない。一種のアバンチュール、恋の火遊びである。命をかけた恋というのとは違う。愛のために世界をかえると言うほどの力はない。しかし、近代という時代は、愛によって世界が変わったのである。

 愛という言葉自体が曖昧である。欧米においてでさえ、恋愛という概念が確立されたのは、それほど昔のことではない。ルネッサンス以前、中世ヨーロッパでは、恋愛という言葉すら画期的、革命的だったのである。それ以前にあるのは、契約であり、打算である。愛というのは、育まれるものであって、最初からあるものではない。それが、恋愛という概念が確立される以前の考え方である。日本においては、つい最近まで、結婚というのは、家と家との取り決めに過ぎない。結婚式の前には、面識もなかったという夫婦が沢山あったのである。
 本来、愛とは、男と女の間に限定されたものではない。むしろ、男と女の間にある愛は、例外的なものであり、むしろ、親と子、主人と家臣との間にある愛の方が普遍的なものだったのである。だからこそ、恋愛という、日常的な問題が先鋭化したのである。つまり、愛という概念が普遍的な意味を持ったのは、そう遠い昔ではない。我々が勝手に、それをまるで不変的な真理のように思い込んでいるのだけなのである。

 60年代、学生運動が盛んな頃、何でもかんでも、解放という言葉がはやった。その中の一つに性の解放があった。そして、それを自由恋愛と称した。と言うよりも訳した。これなど訳者の恣意を感じざるをえない。恣意と言うよりも悪意すら感じる。
 フリーセックスと自由恋愛とは違う。フリーセックスは、突き詰めると恋愛感情まで否定してしまう。フリーセックスというのは、性の解放であり、恋愛の自由という意味ではない。
 愛と、愛する者を常に前提としている。当然と言えば当然な事である。ところが、肉体的快楽と言うだけならば、相手への感情などなくてもいい。むしろない方が言い。相手は、快楽をえるための道具に過ぎないからである。愛を相手を思いやる気持ちだとしたら、性を解放するだけならば、愛など無用である。恋愛感情からくる束縛など最初から持たないことが自由になることである。だから、性を解放しようとすれば、愛を否定する事になる。愛のない自由恋愛なんて自己欺瞞の極みであり、これ程、空疎な言葉はない。つまり、フリーセックスと自由恋愛とはまったく異質なものなのである。そして、性の解放を唱える者は、最初から愛情による束縛から逃れたいだけなのである。それを自由とは言わない。彼等にとって恋愛というのは不自由な者で、厄介なだけの者なのである。なぜならば相手があるからである。愛すれば、愛する者に束縛されるからである。
 相手への感情を無視し、自分の快楽をえようとする行為は、暴力以外の何ものでもない。それが行き着くところは、自虐や自己否定である。それはむしろ愛の対極にある暴力的なエゴイズムに過ぎない。
 つまり、自由恋愛というのは、相手を自在に扱うことを意味するのではない。それは一方的な支配に過ぎない。自由というのは、自ずと規律がある。その規律を乗り越えたところに自由があるのである。それは、相互作用であり、一方的なことを意味するのではない。個としての自分と、個としての相手を認め合うところから、自由は始まる。それは、個としての自己を確立せざるをえなかった西洋においてはじめて花開いた思想なのである。その点を理解しないと勝手気儘に自由、勝手気儘な恋愛になってしまう。
 
 もう一つ重要なことは、物事の尺度を新旧において、古いものを古いという理由だけで、葬り去ってしまう思想である。古いとか遅いというだけで何もかもが否定されてしまう。その中に、日本的なもの、アジア的なもの、アフリカ的なもの、イスラム的なもの、インディアン的なものが含まれていたのである。つまり、新しいもの、進化したものというのは白人文明のみを指してきたのである。だからこそ、白人文明以外の文明は壊滅的な打撃を受けたのである。

 事の正否善悪に、老若男女新旧の別はない。古い恋だから、駄目なんて言えないのである。ところが何でもかんでも新しいものは良いと今は言う。古いものは駄目だと、だから、何もかもが先鋭化してしまう。運動も、恋愛も、自由も、平等もである。その為に全て過激になる。革命的、革新的になる。しかし、考えても見よう、創造には、破壊が伴う。革命も、革新を破壊的、暴力的なのである。しかも、新しいものもすぐに古くなる。陳腐化する。古いものが、駄目だ駄目だと言い続けることは、絶え間ない破壊と暴力を招き寄せることになる。

 性の解放だけならば、快楽はあっても恋愛はない。快楽は反復に過ぎない。(「個人主義とは何か」西尾幹二著 PHP新書)快楽には一対一の感情はない。あるのは、私的な快感だけである。相手は関係ない。だから、快感だけを求めた場合、相手に惨(むご)い仕打ちだって平気にできるようになる。それを自由恋愛だと言われたら堪らない。そこには、自由も恋愛もない。あるのは、己(おのれ)だけの暴力的な快感と欲望だけである。それは、自由ではなくて、我執であり、エゴイズムである。欲望に対する妄執に過ぎない。

 ならば、自由恋愛とは何か。それは、肉欲も含めたあらゆる欲望から解放された純粋な恋愛感情である。それは究極の自愛であり、他者への愛である。愛によって自己を解放することを自由恋愛というのである。

 自由恋愛というのは、誰とでも、どこでも欲望が生じたら性行為ができる状態を指すわけではない。性の解放と言っても同様である。厳格な社会が確立して性に対する戒律が強まったから、その制約をうち破ることに性の解放があっただけである。解放の根本には、意志がなければならない。意志であって欲望ではない。意志がなければ誰が何から解放されるかがわからないからである。ただ、解放・解放と言っても当人にその意志がなければ、解放したことにならないからである。解放は、他者から強要できるものではないのである。民主化について、他国から侵略を受け、侵略者が解放してやったと言っても、それを信じる者がいるであろうか。解放とは、自らの意志で行うものなのである。
 性の解放も然りである。相手を強姦しておいて性的に開放してやったというのは、あまりに傲慢である。結局、行き着くところは性の解放ではなく。性の商品化に過ぎない。それを自由とは言わない。自堕落なだけである。
 よく女性を家から解放してやると言い。専業主婦を売春婦呼ばわりする者がいるが、それは、間違いである。家事労働を外注化することの延長線上に「性の商品化」があるのであり、根本は、家族というコミュニティを否定する事が原因があるのである。自分で原因をつくっておいて、責任だけを相手に押し付けているの過ぎない。
 性の解放というのは、性的な行為に制約をも受けないと言う意味でしかない。もともと、性的行為には相手がいる。一人でできないと言うわけではないが、基本的には相手がいる。その相手という制約がなくなるわけではない。この点を誤解すれば、暴力的にならざるをえない。だから、性の解放の陰には、暴力の陰がちらつくのである。
 性的欲望の陰に暴力がちらつくから、常に、性的行為は、制約を受け、抑制されてきたのである。つまり、性行為が悪いと言っているのではない。ただ、多くの宗教が欲望を諸悪の根源とすることにより欲望による行為に厳格なのである。禁欲的にならざるをえないと言うだけである。そして、これは治安の問題からも一致している。故に、体制側から支持されただけなのである。それに対して、反体制側の人間が、象徴的に性の解放を訴えた。必然的に解放運動が、暴力的になったのである。それも結果であり、開放と暴力とは必ずしも一体ではない。立場が逆になれば禁欲を奨励するものも暴力的にならざるをえない。暴力と自由は本来無縁なものである。

 自由な愛とは、画一的な愛を指しているわけではない。結婚とは、すすんで愛の束縛を受け容れることに他ならない。しかし、その束縛を自らの意志で選んだとしたらそれも自由な愛の一つなのである。

 快楽主義的な恋愛が自由恋愛の一種というなら、禁欲主義的恋愛も、又、自由恋愛の一つの形である。一方に、同性愛者がいて、他方に、同性愛を認めない者がいる。それを保障した制度が自由主義体制であり、民主主義体制なのである。

 何が、正しくて、何が、間違っているかを決めるのは自分である。ならば、何が、自由で、何が愛かを見極めるのも自分である。内面の規律は、外部から強制することはできない。善悪の基準は、他人が強要できるものではないのである。それを誤解してはならない。この世に、愛がない。自由がないというのは勝手である。しかし、だから、他人の自由や愛を妨げるのはお門違いである。自分という者がない人間に自由がないのは当然と言えば当然なのである。他人がどうのこうという以前に自分がないのであるから。自由というのは自己の開放なのである。フリーセックスを正しいというのは良い。しかし、フリーセックスこそ普遍的自由な愛の形だというのは、独善なのである。

 自由恋愛というのは、個々の恋愛の形を言うのではなく自由に恋愛できる場、状況を言うのである。そして、民主主義とか、自由主義というのは、その場や状況を制度によって保障する体制を言うのであって、価値観の画一化や統一化、均一化、同一化を計る体制を言うのではない。価値観や思想を画一化しようとする体制は、それがどの様な形であろうと、全体主義であり、独裁主義である。

 世界の半分は闇である。その半分の闇とは、内面の世界である。人間の心の奥底にある闇の世界を受け容れ、容認し、前提とし、それを制度によって保障しようとするのが自由体制なのであり、民主主義体制なのである。
 自由恋愛で最も重視されるのは、内面の規律である。つまり、自己である。それはストイックですらある。戦うべきなのは、内面の欲望だからである。人を自由に愛することの妨げとなるからである。つまり、封じ込めるべきは、欲望なのである。愛ではない。自由の本源は、欲望によって見失われてしまう人間としての理性なのである。故に、自由恋愛とは理性的な愛なのである。
 だから、そこに美があり、文学としても成り立ちうるのである。恋愛の持つ高貴さがあるのである。それが自由恋愛である。




        



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