愛と欲(愛と性)


 私は、愛について語っているのであって、性について語っているわけではない。その見極めができない者が、愛について語る資格はない。
 愛について問うならば、汝は、愛する者のために死ねるかという事だけである。

 現代日本人は、愛と欲との見境もない。真実の愛を見分けることも、できなくなってしまったのか。不倫。心中。失楽園。家庭崩壊。あたかもこれらの現象を愛が引き起こしているように言う者がいる。それを小説にして、真実の愛であるかのごとく言いふらす者もすらいる。現代の喜劇である。同時に悲劇でもある。

 現代人の不幸は、愛する事を覚える以前に、性を教えられることだ。
 愛と性と欲望と快楽。これらは、一つ一つ、別物だが、お互に集合離散し、組み合いながら一つの想いを形成する。一つ一つは大切な要素であり、否定するべき事ではない。しかし、組み合わせ次第では、人生を破滅に導いてしまう。
 ただ、性や欲望や快楽だけを追求しても。また、性と欲と快楽がいろいろと組み合い一つの想いとなったとしても、それらが、愛に結びつかなければ、人間にとって極めて危険な働きをする。なぜならば、根底に愛がなければ、行動の抑制がきかなくなり、自制心が失われるからである。その結果、欲望も快楽も暴走して自分を破滅へと誘う(いざなう)事になる。
 性行為は、大切な事である。蔑(さげす)まれるようなことではない。神聖な事である。それは、人間の誕生・生命に関わることだからである。古来、人間は、性を卑しむ(いやしむ)か、タブー視するか、信奉するかのいずれかに偏ってきた。神聖視か。禁忌か。いずれにせよ、性の問題を隠して遠ざけてきたことには違いがない。しかし、性は、人間に与えられた本源的な要素であり、子孫を残し自己を継承するために必要不可欠な神聖な行為である。
 快楽は副次的なことである。快楽を否定する気はない。必要もない。しかし、快楽のみを追い求めることは、危険なことである。快楽は、人の最も好むものである。求めれば際限がなくなる。ただ単なる快楽自体には実体がないからである。実体がないから、抑制がきかない。抑制力のない快楽は、快楽が快楽を呼び、人間の感性を麻痺させ、道徳心をも失わせる。それは、麻薬のように人間の心を蝕ん(むしばん)でいく。
 欲望は、人間が生きていく上で不可欠な要素である。生理的欲望は、生存にかかせない要素である。性欲は、食欲と同じように大切で基本的な欲望である。
 禁欲をすれば、平安が訪れるというのは、幻想である。それは、生き物としての本性を否定する事である。それは、生き物として生かしている神の意志を否定する事でもある。ただ、欲望は、快楽と結びつきやすい。欲望と快楽が結びつき、その根源に愛がなければ、欲望は快楽を呼び、快楽は欲望を呼び、際限がなくなる。そのまま、無間地獄に堕ちていく。快楽と欲望を抑止し、制御するのが愛の力である。
 性は、実体的に快楽と欲望との働きに依存している。性は、欲と快楽によって呼び起こされる。故に、性は、愛がなくても発動する。ただ、性は、愛がないと行動を制御できなくなる。欲が先走れば、情は殺される。だからこそ、性を知る前に、愛を知る事が大切なのである。愛する事を知れば、愛する者のために、自分の行動を抑止することを覚える。それこそが愛の力、愛の本源的力である。
 現代人の不幸は、快楽に溺れ、快楽のみを追い求めている事である。人間の本姓を否定し、唯物的快楽主義に陥った時、人は自制心を損なう。憶陰(そくいん)の情や憐憫(れんびん)の情をなくし、何処までも残忍、残虐になる。人を思いやる心や大切にする心を失い、ありとあらゆるものを破壊し、呑み込んでいく。自分の周囲の人間を巻き込みながら自滅への道を辿り始めるのである。ただ快楽のみを是とした時、人類は、底なしの快楽の闇に吸い込まれていく。それは、人類滅亡の時である。その時、愛のみが世界を救う事ができる。

 愛は、情。性は欲。愛は情けである。感情である。性は、欲である。欲望である。本質が違う。本質の違うものを一緒くたにして語ること自体おかしい。
 愛があれば性的交渉は当然とか。愛のない性なんてとか。全然関係ない。友達でもない奴を信じて騙されたら、騙された奴も悪いと言われるのがオチだ。騙す、騙されるというのは欲だ。信じる信じないと言うのとは、次元が違う。信じた人間に騙されたのならばいざ知らず、信じてもいない人間に騙されたのでは、話にならない。人を信じるか否かというのと、物欲とは無縁である。強いて言えば、意地汚いから騙されたと言うぐらいの関係しかない。
 性欲があって人を愛するわけではない。愛するというのは、性欲と本質的に無縁だ。ただ、欲は人を動かす。だから、人を愛するキッカケや動機にはなる。しかし、それは、キッカケや動機に過ぎない。
 愛すると言う事は、相手を信頼し、全てを委ねることでもある。必然的に欲も出てくる。それは結果である。愛してもいない人間に全てを委ねられるかというのと、愛しているのだから、全てを委ねたという議論と同じである。つまりは、信じているかいないかの問題に過ぎない。
 ところが愛欲となるとまるで違う。愛より欲が前面に出て、いつの間にか、愛を乗っ取ってしまう。それを愛だともてはやす、小説家やメディアの人間の頭がどうかしている。相手に対する思いやりや優しさがない愛なんて、元々存在しないのである。それは、愛情ではなく。欲望である。

 愛を男と女の間の一時的な感情と錯覚している者が居る。酷(ひど)い奴は、性欲を満たすための口実ぐらいにしか考えていない。思いやりやいたわりのない愛なんてない。

 私は、欲が悪いと言っているのではない。欲と愛とを取り違えるなと言っているだけである。

 性そのものは、神聖なものである。性欲というのは、人間が自然に与えられた欲望である。食欲や睡眠欲と何ら変わりはない。違いがあるとしたら、それは、相手がいると言う事だ。自分の性欲の捌け口としか、考えていないとしたら、その関係に最初から愛なんてあり得ない。それを愛だ性だと言い合うことは愚かである。

 愛は、思いやりである。慈しみである。優しさである。相手の意志や人間性を尊重しないところには成り立たない。逆に、性的な関係がなくても愛は、成立する。また、相思相愛でなくても愛は成立する。要するに、愛なんて、自分の思いに過ぎない。ただ、相手を思いやる気持ちがなければ、愛なんて成り立たない。

 自分勝手に相手を好きになり、相手が自分の方を向かないからと言って、相手を恨んだり、傷つけたり、中傷することを愛とは言わない。愛は、手前勝手な執着心を指すのではない。相手への思いやりである。

 愛と道徳は、密接な関係にある。なぜならば、愛は、自制心だからである。愛は、抑制する。相手の嫌がることや傷つけるような行為を愛は抑制する。相手を愛するからである。愛は、人間関係である。関係を破壊するような行為を最初から求めたりはしない。
 愛は、欲望を無条件に解放する(欲望を解放することを自己の解放だと錯覚している知識人が居るようだが)とは違う。
確かに、愛と欲望は、密接な関係にある。それは、愛は、お互いを許し合うことでもあるからである。許し合い、認め合い、そして、相手を受け容れれば、相手の欲望がむき出しになるのは必然的結果である。しかし、それは、結果である。愛し合った結果に過ぎない。最初からむき出しの欲望だけで愛するわけではない。お互いにお互いをさらけ出した結果として親や友達にも見せたことのない行為をしているに過ぎない。それだけを愛と言われたらあまりにも遅間差である。
 愛は、自制する。それは、相手を傷つけまいとして自制するのである。それをみすみす相手が傷つくと解っている事をするのは、ただ、自制心がないからにすぎない。

 行きすぎた、男女同権は、愛を否定する。
 愛は、理屈ではない。男と女、いずれが優れて、いずれが劣っているかなんて考えること自体、既に相手に対する尊敬心を失っている。男尊女卑。確かに、まだまだ、女性の社会的地位は低いかも知れない。だからといって、男と女の性まで否定するのは行き過ぎである。愛する事によって人は幸せになれる。その男と女の仲まで入り込むのは、真実の平等ではない。それは、唯物論的快楽主義に過ぎない。

 今の日本人は、家族や会社、国家を全否定しているかのごとく見える。それは、その根本にある愛を否定していることになる。結局、愛欲ではない。むき出しの欲望しか残らないのである。人も会社も国家も欲望の赴く(おもむく)ままに、貪欲(どんよく)にありとあらゆる物を食い散らかす。最後には、我と我が身をも食いつぶしてしまう。それを愛というのか。それではあまりにも薄汚すぎる。要するに、自分の悪行を愛という名で誤魔化しているに過ぎない。
 愛は、融和する力である。一つにする力である。お互いを背かせ、抗い(あらがい)、憎み、争わせる力ではない。それは、欲である。故に、欲を抑える力こそが愛である。愛と欲を一つながらにして言うのは、愛が欲を抑え、欲が人を動かすからである。その二つの力が調和したところに真実の愛がある。愛が欲に支配されることではない。

 愛は、幻想ではない。現実である。現実に人を愛する時、真実の愛が結実する。恋に恋したところで愛は見えない。良いところも、悪い所も相手を受け容れ、許し合わなければ愛は、成就しない。白馬に乗った王子様を望んでもそのような人間は、居ない。理想を追うのは良いが、理想は、現実の中にこそ在ることを忘れてはならない。
 愛は、幻想ではない。現実である。目の前にいる人が愛せなければ、どうして、他の人を愛せるだろう。



愛と性



          


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