同志愛(愛社心・愛校心)



 愛社精神にも定年はあるのであろうか。

 今頃、愛社精神などというと笑われてしまう。しかし、社員のことを一番心配し、面倒を見ているのは、会社である。スマトラ沖で海賊に日本人が、拉致された時、真っ先に駆けつけ、人質の解放に尽力をしたのは、彼等が勤めていた会社の人間である。身代金の要求先も会社である。テロリストと交渉をするのも、会社である。災害や事故、病気の際、保障するのも会社である。各種の保険、年金、会社を辞めた後の面倒まで見るのも会社である。成人病検査をし、子供の入学には、お祝いまでしてくれる。それでなくとも、生活の糧となる収入を確保し、家族の面倒まで会社は見てくれている。会社がなければ、安定した生活など望めない。四六時中心配してくれるというのに、感謝すらしてもらえない。会社の奴隷になるな、やれ搾取していると罵られ、悪者扱いである。愛されるなんてとんでもない。こう考えると会社が可哀相になる。

 反体制・革命思想家から見ると会社は、目の仇である。組合は対立を煽り、会社と社員との間を裂いてしまう。しかし、会社というのは、働く者にとってそんなに愛せない存在なのだろうか。

 定年で退職をした瞬間、痴呆症になり、退職した会社に通う人がいると聞いたことがある。定年退職後、同じ会社に勤めていた人達が、定期的に会合を開いている例も多くある。会社を辞めた後、会社を離れられない人が沢山いるのである。

 現代人は、愛社精神や愛校心は、一時的感情、酷い奴は、気の迷いぐらいにしか考えていないようだ。愛社精神、愛校心は、永く遺る想い・記憶である。人によっては、人生そのものと言っても過言ではない。生き甲斐である。

 ところが、愛社精神とか、愛校心、果ては、愛国心といった愛する心、帰属意識をまるで自由と背反するかのごとく否定してしまう傾向がある。

 会社は、働く者のものではない、株主のものだという論理には、国家は、国民のものではないと言う論理が見え隠れする。しかし、本当に、企業は、出資者だけのものであろうか。経営者、従業員は、株主の奴隷なのであろうか。違う。会社は、本来、働く者のためにあるのである。会社は、会社を設立し、そこで働く者達が、自分達の労働を通じて自己実現を計る場所である。それが本来の姿である。

 会社がただ単に株主のものだとしたら、そこには、雇用関係しか存在しない。しかし、本来、企業、会社は、同志的な繋がりによって結ばれているものである。従業員同士には、確かにライバル意識が存在する。しかし、それ以前に共通の目的のための協力関係が前提となる。それがなければ、会社、企業を組織化し設立する意味がない。世界で一番速い飛行機を飛ばしたいとか、人々の生活を豊かにしたい、音楽でたくさんの人を幸せな気分にしたいそう言った夢が会社を作られ、人々の力を結集させるのである。その夢を否定してしまったら事業など最初から成り立たない。労資を対立的に捉える思想は、労働にロマンを見いださない。だから、労働者の気持ちを理解できないのである。労働がもたらすものは、苦痛だけではない。喜びもまたもたらすのである。達成感ももたらすのである。
 企業は、元々事業をするために結成されるものである。事業の根本は、志にある。夢がある。金儲けだけではない。むろん、金儲けが悪いというわけではない。しかし、事業は、金儲けだけを目的にして成り立っているわけではない。今の人には、根本に対する認識がすっぽりと抜け落ちている。自分達が就職をする時、即ち、一生の仕事を選ぶ際、それが本音であろうと、建前であろうと本音であろうと金儲けだけを目的としているのではなく。それなりの志がある。それを忘れると自分が依って立つ場所が解らなくなる。
 この志や夢があるが故に、企業には、契約関係的な側面だけでなく、誓約関係的繋がりもあるのである。特に、東洋においてはその傾向が強い。桃李の誓いがその典型である。現実の仕事場、現場では、契約関係より、誓約関係、人間関係の作用の方が強いのである。
 一生を伴にする同志的繋がりが、職場にはある。死に水をとる仲間関係が基礎となる職場も多い。だからこそ、理想や夢を会社に託すのである。会社に、理想郷を求めるのである。しかも、根底に生活を内包している。夢を追いながら、人々の日々の生活を支えている。だからこそ、事業は、ロマンたりうるのである。つまり、運命共同体なのである。危険を顧みずに死地に赴くのも金儲けのためだけではない。

 もともと、職場は、修道院のような寺院のような、道場でもあった。職場は、生活の糧を得る場であったとともに、学舎でもあったのである。事上の錬磨。職人の世界、マイスター制がその好例である。働きながら、生き方を学ぶ、それが職場で姿である。それ故に、そこで働く者の間は、強い同志愛が生まれ、それが、社会の変革の原動力ともなってきたのである。同志愛は、絆でもある。働く場は、人生修業の道場でもある。そこには、上司部下を超えた師弟関係すら存在したのである。現代社会、特に、左翼思想の多くは、その関係を頭から否定している。だから、職場で生きる者が共通の立場に立てなくなりつつあるのである。その結果、事業は衰退してしまい、人々は疎外されるのである。
 本来人生に定年はない。だから、職場も終身雇用が本来の在り方であるはずである。仕事を奪われ、一人淋しく年老いていく姿を理想とする社会は、それ自体狂っている。人生というもの、生きると言う事の意義を見失っている。だから、若者達は、正業に就くこと、就職することを拒むのである。

 就職する事は、夢を捨てることだ。会社に入ったら好きなことをできない。愛社精神なんて馬鹿げていると教えるのは、人間本来の愛に背かせることである。会社を憎ませ。会社と対立することを組合の使命のごとく教えるのは、犯罪的である。組合も会社も本来の目的は同じである。目指すべき目的が同じだからこそ組合は、会社が本来の目的を逸脱しそうになった時、その存在をかけて戦うのである。愛社精神なくして許されることではない。
 博愛といいながら、愛する事を否定する。愛は、互いに背かせ、争うことを奨励するかのごとくである。しかし、愛は、本来人々の心を統合する力である。
 現代の小説や純文学と称する分野では、愛欲や不道徳なことが好きである。不倫、心中、変態、強姦、失恋、殺人、嫌と言うほど、人間の醜さが愛の名の下に描かれている。
 彼等には、愛と憎しみの区別すらつかないのであろう。愛する者に裏切られるのを怖れていては、愛する事はできない。家族や会社、国家が期待を裏切ったからどうだというのだ。それでもただただ、愛する者を良くするために働くだけである。尽くすことである。憎めるくらいならば楽である。
 愛する人、愛する国を良くしようとする。それを戦後の知識人は、悪いという。それでいて、何かというと愛を口にする。愛する心を持たぬ者がどうして愛を与えられるというのか。
 彼等が描く愛は、ドロドロとした怨念、憎悪、憎しみでしかない。それを純文学と称する。人間は、薄汚いものだよ。そう言いたいのかも知れない。自分の免罪のために。しかし、本当の愛は、純粋なものだ。清らかな心である。愛国心も国家や他国に対する恨み妬みから発するものではない。自分を育んでくれた国家に対する感謝の気持ちから発するのである。
 職場は、自己実現の場である。だからこそ、最も思い入れが強い場である。愛情が、家族に対するのと同じくらい強いのである。愛社精神を否定するのは、自分の人生を否定するようなものである。仕事をする場は、自己実現のための場、つまり、自由を実現する場なのである。だからこそ愛社精神は、自己変革と組織変革、社会変革の原動力となるのである。

 確かに愛は、葛藤を生み出す。しかし、それは、愛を成就し、一体となるための過程においてである。憎み合い、対決させんが為ではない。愛の本質は、対立ではなく、融合である。

 会社というのは、運命共同体である。人は、必ず、何らかの運命共同体に属している。それも、一つの運命共同体とはかぎらず、複数の運命共同体に属している場合が多い。何らかの組織や集団に属すること、帰属する事を不自由だと考えている者がいる。隷属することだと考えている。
 運命共同体と構成員を対立的に捉える思考である。かなりへそ曲がりの発想である。
 親に反発をし、家を飛び出したとしても多くの場合は、一時的なものである。最終的には、家に戻るか、新たな家を造る。家族が一つになるための試練である。そのとき力を発揮するのが愛情である。
 人は、会社や国家と一体になれれば自由自在になれる。その為に、会社や国家と戦うのである。離反するのが目的ではない。だから、権力闘争に発展する。それは、人が自分の属する共同体を支配することによって一体となろうとするからである。

 運命共同体というのは、一種の同志的集団である。故に、運命共同体への愛は、同志愛である。その際たるものが、愛社精神であり、愛校心である。

 ここで言う運命共同体とは、自分の意志で選択的に参加し、創造できる集団、組織である。だからこそ、自由を実現できる場なのである。その典型が、企業、事業体である。

 よく株式会社は、株主のものだという。嘘である。厳密に言えば、どうでも良いことである。要は、そこに住む者、生きる者の主観に過ぎないからである。そう言う意味では、会社は、そこで働く者達のものである。株式会社は株主のものだというのは、理論的に正しいかもしれない。法的には、そう決まっているかもしれない。しかし、その組織に生きる者にとってそんなことはどうでも良いことである。なぜならば、自分達は、自分達が属する会社の中で生きているからであり、生活しているからである。それが現実である。問題なのは、その企業に定年があることである。

 定年制というのも残酷な制度である。人情を解さない制度である。人は、仕事が嫌いで働くのは辛いことだと思っているという事を前提とした制度である。働かないで生きていけることは幸せだと思いこんだ愚か者の作り出した制度である。
 人間にとって最も辛いのは、労働ではない。必要とされなくなることである。役に立たなくなることである。忘れられることである。無視されることである。居場所がなくなることである。働けなくなることである。

 隠居して悠々自適の生活なんて嘘である。それは、老人性の引き籠もりに過ぎない。

 人間は、何者かに必要だと思われるから生き甲斐があるのである。その人を最も必要とするのは、その人が働いてきた組織・共同体である。そして、自分の存在意義を最も明らかにしてくれるのは仕事である。仕事を愛せなければ、自分を愛する事もできない。仕事は、誇りの源泉である。生き甲斐である。生きた証である。だから仕事場を愛さずにはいられない。しかも、自分の命に限りがあったとしても組織は、やりようによっては、恒久的に続いていく。

 人は、経済的な理由だけで働いているわけではない。存在意義を見いだしているのである。その本質は愛である。自分が帰属する運命共同体を愛するのは当然である。何よりも強い愛着を抱いているのかも知れない。その愛を中途で断ち切ってしまえば、多くの人が生きる目標や生き甲斐をなくしてしまうのは当然である。

 休みを増やしたり、定年を早めたりして働かなくてもいい環境を作るのは、間違いである。それは、怠け者の発想である。決してゆとりある生活ではない。一生働ける環境、快適な労働環境を作ることが大切なのである。それが愛なのである。






          


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