師弟愛

 師とは何か。
 師弟愛を語ろうにも、現代という時代には、身近に師と言うべき存在が見あたらなくなりつつある。半面、師とは、似て非なる存在が横行している。

 師とは、学校の先生とは違う。学校の先生は、師とは異質の存在である。
 師は選ぶものである。師は強要されるものではない。
 また、弟子も選ばれるものである。しかし、試験によって選ばれるのではない。人格や熱意によって選ばれるのである。故に、師と弟子との間は、極めて主観的なものである。だからこそ、愛情によって結ばれているのである。それが師弟愛である。
 故に、師と学校の先生は違う。学校の先生を生徒は選べない。先生は生徒を選べない。だから、学校の先生と師とは異質の存在である。ただ、教え、教わるという外見的行為、行動は共通している。だから、師と先生を混同するのである。師と先生係に一体となるとしたら、それは偶然に過ぎない。師と学校の先生とは違うのである。

 師の問題は、弟子の問題なのである。教わる姿勢ができていない者を指導することはできないからである。心の底から、師の教えを受けようとするから、師の教えを理解することができる。身に付くのである。いい加減な気持ちで教えを受けても反発しか残らない。克己復礼。学ぶと言う事は、先ず自分に克(か)たねばならない。素直にならなければ、相手を受け容れることができないのである。学問は、人に言われてできるようなものではない。自ら進んで、学ぶ心がなければ絶えられない。つまり、学とは、志すものなのである。
 それ故に、師の問題は、弟子の問題である。教えてくれないなどと不平を言えば、教えようがない。だからこそ、かつては、門前で師の許しをえてから学んだのである。

 師弟関係で最も問われるのは、人格である。教えるのに値する人か。教わるのに値するかである人かである。なぜならば、師から学ぶのは、全人格的なもの、生きることそのものであるからである。

 師とは、人生の師である。人生いかに生きるかを教えてくれるのが師である。人間としての生き方、出処進退を指導してくれるのが師である。師とは、指導者である。

 師から学ぶものは、たんなる、知識や技術、処世術ではない。現世利益を求めても師からは何も受けられない。

 学ぶと言う事は、命懸けなことである。本来、修業なのである。師たる者は、自分が人生を賭けて体得した者を弟子に与えるのである。教える者も、教わる者も中途半端な気持ちではできない。故に、今でも禅寺では、三日間門前で試されるのである。教えてくれないと恨み言を言うようでは、学ぶ姿勢そのものができていないことになる。学問には、体得する以外、学ぶ事のできないことが数多く含まれているのである。

 師は、自分の全てを与えるのであり、また、弟子は、師の全てを学ぶのであるから、師弟愛ほど深い者はない。全身全霊を賭けて教えるのであり、全身全霊を賭して学ぶのである。師弟愛は、母とこの愛に勝とも劣らないくらい深い絆がある。

 緒方洪庵は、当代一流の名医であったが、自分の弟子の見立ては私情が入るからと言ってできかったと聞く。孔子は、弟子の子路の死の報を聞いた後、三日、食べ物が喉を通らなかったという。それほど、師は弟子を思うのである。

 だからこそ、師の恩に報いるために、弟子は、命懸けで、師の教えを守ったのである。
 師弟愛には、キリストとその弟子、ブッタとその弟子、孔子とその弟子、ムハンマドとその弟子というように、宗教的な関係が強い。
 学ぶと言う事は、自分の全てを擲つほど強い動機が必要なのである。

 ただ、それほど強い動機なくとも、教えを受けると言う事は、大変に尊い行為であり。かつては、その尊さが、仰げば尊しの様に歌にまで唄われるほど人々の間に浸透していたのである。三尺下がって師の影を踏まず。仰げば、尊し我が師の恩である。

 本来、師弟関係の根本は恩と義という関係なのである。自分に必要なもの、自分が求めるものをいただくのである。感謝の念がなければ学びはできない。学ぶものの価値は、自分で決めるのである。疎略に扱えば、有難味もなくなる。師は、長い年月を掛けて身につけたものを弟子に与えるのである。その気で教えを請わなければ体得できるものではない。つまり、学問は体得するものでただ、本を読めばえられる質のものとは違う。その点を現代人は錯覚しているのである。師は、師である。師という存在そのものが教えなのである。

 しかし、師弟関係が、いつの間にか、学校における人間関係に置き換わってしまった。学校における人間関係の基本は、義務と権利でしかない。それは、どちらも強制的な力によって関係付けられている。また、学校の先生というのは、賃金労働者の一種であり、契約関係によったものでしかない。さらに、塾や専門学校は、市場経済、つまり、競争関係の産物に過ぎなず、金銭関係でしか評価されない。故に、教育にも競争の原理を働かせるべきだという議論が成立するのである。
 市場原理から言えば、教育とは、受験技術や受験用の知識を切り売りしているのに過ぎない。しかし、それでは、自分のものにならないし、世の為、人の為にもならない。学問に必要なのは献身なのである。

 日本人は、いつの頃か、恩という思想を捨てた。父母の恩、衆生の恩、国の恩、四恩、一宿一飯の恩、師の恩。この様に、恩という概念が、かつての日本人の人間関係の中核にあった。その恩が義理人情の素なのである。恩着せがましいことはやめろ。悪い事だ、嫌味な事だと言って捨てさせた。恩に変わったのが貸し借りである。借りたものは返せばいいという考えである。しかし、恩は、貸借関係ではない。心の問題である。奥深いものである。ただ返せばいいという問題ではない。だからこそ真実、真心、誠意が大切になるのである。それが日本人の人間の根本にあった。
 師の恩は返せばいいという関係ではない。

 師と弟子との関係の根本は、愛なのである。






          


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