愛国心



 愛国心というと何となく居心地の悪さを感じる。この気持ちは、戦後の日本人に共通しているように思える。

 愛に関することで愛国心ほど、政治的に利用されるものはない。国威発揚や国民の士気高揚の為に、というより、国は、自分達に都合が悪くなると愛国心と言い出す。愛国心は、プロパガンダの常套句である。
 中国人や韓国人の愛国心は、許せても、日本人の愛国心は、許せないというのは、日本のマスメディアの不可解な所だが、愛国心というのは、日本以外の国では国家に利用される。
 戦前の日本もご多分にもれず何かというと愛国心、愛国心と国民の感情に訴えてきた。その為に、戦後になると愛国心というのは、全体主義や軍国主義に結びつけられて否定されてきた。

 今、愛国心というと国と国とを対立させ、争わせる、国家間の憎悪を増幅させる戦争の源のようにしかみえない。だから、愛国心、愛国心と声高に叫ばれ出すと心中穏やかざる気持ちにさせられる。なんだか、戦争の足音が聞こえてくるようで。

 しかし、愛国心というのは、もっと純朴で、素朴な感情ではないのだろうか。本来は、個人の国家に対する想いに根ざしたもので、人に強要される性格のものではない様な気がしてならない。だこらこそ、愛国心、愛国心といわれると、まるで、母親や父親に対する愛情を強要されているような味気なさを感じてしまう。

 忠誠心もまた愛国心同様、時の為政者や政府に悪用されてきた。忠誠心というのは、愛の形の一つである。それは、愛する者のために、誠心誠意尽くすことを意味するのであり、盲目的に服従、隷属することを指すのではない。それ故に、愛国心も忠誠心も強要されて持つ心ではない。愛する者や国のために愛する者や国の不正を正すのも愛国心、忠誠心の現れである。戦前、見せかけだけ上辺だけの愛国心、忠誠心に踊らされ、戦後は反体制を気取って愛国心、忠誠心を否定する。しかし、根っ子は同じである。軽薄なだけだ。

 世上、我々が聞く愛国心は、何か、親の仇(かたき)みたいなものになってしまっている。扇情的プロパガンダ。とにかく、対立国を憎しみをこめ罵倒して、愛国心を鼓舞する。しかし、仇討ちのような、復讐心のようなものを愛国心というのであろうか。愛国心は、そんな狭量な、了見の狭い心ではない。時の為政者・政府が、愛の名の下に憎しみを煽っている。それでは哀しすぎるではないか。
 愛国心は、本来おおらかな心である。包容力である。寛容さである。許しである。一方通行の片思いの恋、ストーカーの執着心とは違う。おおらかで、暖かくて、ゆたりとした心である。愛国心こそ、愛で国を満たす心である。憎しみを満たす心ではない。

 愛国心を問う時、必ず、国家とは何かが、問題になる。国家とは、権力なのか。体制なのか。政府なのか。法や制度を指して言うのか。それとも、民族なのか。それとも宗教なのか。国民国家にとっての国家は、国民の合意に基づく体制、共同体と国際的に承認された物理的空間である。では国民とは何か、それは、憲法によって定義されている。たしかに、理論的言うと国家とはそう言うものかも知れない。しかし、一般の人間にとって国家とは、心の古里である。

 愛国心は、国を想う寛(ひろ)やかな気持ち。穏やかでゆったりとした心。どこか郷愁を誘う懐かしい匂い。暖かみ。和(なご)み。癒し。優しく呼ぶ声。愛国心は、許し合う心。だからこそ、本来は、愛国心こそ平和への祈りであるはずなのである。

 真の愛国心は、対抗心や敵対心を煽ることで生み出されるものではない。国家・国民の名誉、誇りに基づいてこそ、愛国心は、成り立つ。国民の意志に基づいてこそ公共的な愛国心は形成される。人気のない為政者ほど、他国に対する対抗心によって目をそらせようとする。大義を失った理念は、他国にたいする敵愾心によって自国を正当化しようとする。それは、道義心のない無法が証明している。憎しみの連鎖をうむだけである。内憂外患。内政が破綻したとき、外に敵を求めるのは、権力者がよく使う策である。しかしそれは、愛国心を育てる動機にはならない。動機が不純である。それが、原因となって侵略戦争やテロ行為が起こったのは、歴史が証明している。その結果、惨禍(さんか)を受けるのは、無辜(むこ)の民である。時の権力者が、自分の人気取りや、保身のために、愛国心を利用し、鼓舞するのは、危険な行為である。それだけで、愛国心には力がある。

 愛国心は、自国だけでなく、諸国民への愛である。近隣諸国、世界各国への愛である。それは、真の自愛が、他愛と同じように、自国への愛が他国への愛へと昇華されるのである。故に、愛国心から人類愛へと昇華されてはじめて実現する。愛国心は、平和への祈り。それこそが真実の愛国心である。

 古里を懐かしむ郷愁。友や恩師に対する思い。環境や自然を慈しむ気持ち。自分が生まれ育った国の文物や歴史伝統を重んじ、大切にして受け継いでいこうという決意。祭りや仕来り、儀式によって自分達の祖先の教えや教訓を尊び護持していく事。大地の恵み。それらがない交ぜになった想いが愛国心の源流である。それは、自分のルーツである。

 愛国心とは、情である。理ではない。
 愛国心は、情であり、思想ではない。理屈ではない。子供が、親を敬い慕うような、親が、子供を慈しむような、夫が妻を労るような、妻が夫を愛おしむような、自然の情である。愛国心は、国民の国家への思いである。

 愛国心は、平和への祈り。愛国心は、環境を大切にしようと言う篤信。自然への畏敬心。我が祖国というフォークソングがある。その対象は、This Land つまり、大地である。我々を生み育んでくれた母なる大地である。その大地、祖国を愛し護ろうという心が愛国心である。

 愛国心の向けられるべき対象は、時の権力者でも、政府でも、体制でもない。国家そのものである。国民国家にとって国家とは、人民の意志である。先祖であり、子孫である。先祖から子孫へ受け継いでいかなければならないものである。
 だからこそ、愛国心は、変革の源なのである。愛する者を護るために、国を変革し、外敵から護るのである。また、自然や環境を保護するのである。文化、文明を起こすのである。いかに、経済が発展し、物質的に豊になったとしても、祖国の自然や歴史・伝統が損なわれてしまえば、それは、愛国心の為せる業ではない。

 木を切りに山に入る時、山の神に祈りを捧げ、許しをこい。山で木を切った後は、必ず接ぎ木をして、絶えぬように山に感謝するのである。そして、自分は生かされていることを再確認し、自分を生かす者を怖れ敬うのである。それが愛国心である。
 真の愛国者は、意味もなく、自然を破壊したり、勝手に開発をしたりはしない。意味もなく戦をして、祖国を荒廃の極みに導いたりはしない。常に、恵みに感謝をし、収穫が在れば、お祭りをしてその一部を元の自然に帰す。その気持ち、その心が愛国心なのである。つまり、国は神と同じなのである。自分を外敵から護り、日々の糧を与えてくれる国に対する純朴、素朴な感謝の気持ちこそ愛国心なのである。
 国は、生きていく為に不可欠な存在なのである。国は、自分が生きていくことの証。だからこそ、国は誇り、国は至高・始源なのである。

 誇り高くなければならない。誇りを持とう。誇りがなければ愛する者を護ることができない。愛する家族を。愛する古里を。愛する仕事・会社を、愛する国を護ることはできない。誰も護ろうとしない者は、護りきることはできない。国を愛するとは、結局は、自分と自分の愛する者達を護ることなのである。






          


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