人類愛



 私は、夢みる。いつの日にか、この地上から争いがなくなり、世界が愛で満たされる時が来ることを。

 人類愛は、人類にとって普遍的な愛である。我々は、人類の発展と恒久的な平和を夢みて、日夜研鑽を積む。

 科学の発展も、政治や経済の制度も人類愛に貫かれていなければならない。貫かれていなければ、意義はない。人類愛に根ざしているから救いがある。人類への愛は、神への愛に繋がっている。だから、人類愛は、平和への祈り。神への祈り。

 人類愛は、自愛である。おのれの存在と、おのれを生かし、存在させる物への愛である。自分が回帰していくところへの愛である。

 人間が人間であることを誇りにできる世界。人間がもたらす、栄光に使命感を持てる世界。それこそが人類愛に根ざした世界である。

 人間の本質に対するかくとした信念がある時、人は、迷いや惑いから解放される。迷いや惑いがない時、人は、自信を持って自分の為すべき事に専念できる。熱中できる。夢中になれる。どのような辛酸さからも、苦痛からも解放される。耐えることができる。
 生きていることに満足巣目のではなく、生きることに満足できるようになれる。時間は、止まってはくれない。だからこそ、変化する時に永遠の喜びを手中にできる。それこそが歓喜の時。

 スポーツ選手は、観客の声援を受け、スポーツに没頭する時、最大の喜びを感じる。そして、勝利の時に最高の歓喜を得る。選手と応援する者の心が一つになった時、ルールに従って自在に運動できる時、人は自由となり、忘我の境地を得ることができる。心気力が一体になった時、精神は高揚し、心技体が一体になった時、最高の力を発揮する。気力が横溢する。

 その活力の源こそ人類愛である。だからこそ、スポーツは美しく。スポーツの祭典は栄光に満ちているのである。おのれとおのれの魂を燃焼しきれる。そのとき、人は、美となる。

 愛国心も人類愛へと昇華され。人々は、平和の祭典に酔いしれる。それが真実の愛国心。真実の人類愛である。
 勝者は、敗者を労り称え、敗者は、勝者を敬う。それは、愛である。情け(なさけ)である。

 人類愛は、人間に対する根源的愛。自己への根源的愛。私は、人間である。人間として生きていかなければならない。同じ種である人間と助け合っていかなければならない。同じ人間への愛、それは、自分が人間であることの証。自分である事への証。人類愛を失えば、人間は、人間に対し、底なしに残酷になる。残虐になる。人を人と思わなくなる。
 差別も、迫害も、大量虐殺も相手を人間として認めていないからできる。同じ人間だと認めたら、自制心が働くはずである。人間として認めていないから何でもできるのである。
 同様に、自分は、人間ではないと思えば何でもできる。神か、悪魔だと思えば、何でもできる。どんな残虐非道でもできる。神を信じぬ者だけが、神を利用する事ができるように。しかし、所詮人間は人間である。人間にしかなれない。神にも、悪魔にもなれない。ならば、なくしてはならないのが人類愛である。
 同じ人間だと思うから人間は、抑制できる。時として、信条や思想は、人から自分が、人間であることを忘れさせる。それは、恐ろしいほどの残忍な行為の始まり。神の名の下に人類愛を放棄した者は、時として、想像を絶するほど残酷になる。それは、人類愛を捨てるからである。しかし、神は、人に対する愛を捨てたりはしない。神の名の下に人を差別するのは、欺瞞である。
 人類愛をなくせば、人は物でしかなくなる。魂の根源を見失うからである。人類愛の否定を科学の名の下に推進するのは、科学に対する冒涜である。科学は、人類を苦しめるためにあるのではない。科学の健全な発展を促す物こそ人類愛である。唯物論的快楽主義ではない。

 人を差別したり、殺戮するのは、人類愛の欠如である。現代は、人類愛を裏切り、人間性そのものを喪失しつつある。取り戻さなければならないのは、人類愛である。

 人類愛こそが人類を救える。至上の愛。






          


このホームページは、リンク・フリーです

Since 2001.1.6

本ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the
author.Thanks.


Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano