神の愛



 現代人は、誓いを忘れた。そして、何も恐れなくなった。
 何者も怖れなくなった報いは、自らが受けなければならない。神の愛は、常に、万物に降り注がれている。神の愛を受け容れるのも、拒むのも自分次第である。
 ただ、神を怖れぬ者に、神の愛を受け容れることはできない。

 神の愛は、絶対である。神の愛は、普遍である。神の愛は、存在そのものにある。神の愛は、自己の存在から発する愛である。自己の存在に由来する愛である。自己の存在を根源として愛である。故に根源的な愛である。同時に究極的愛である。つまり、神の愛は、始まりであり、終極である。
 
 人は、満ち足りている時、神を侮る。不幸になると、神を呪う。しかし、神は、神である。人の思惑、都合に囚われてはいない。神を必要としているのは、人であり、神は、人を必要とはしていない。
 人は神によって生かされているのである。人がこの世に存在するのは、神の愛に依るのである。しかし、神は、神御自身の力で存在している。
 人が神を信じようと信じまいと、神には、何の影響もないのである。故に、人は、神に祈るしかない。神の愛されて、人は、生きている。存在している。生かされている喜びを感謝しつつ、神に祈る。そして、神への愛は祈りとなる。

 神の愛は、祈りである。祈る心に神の愛は宿るのである。

 神の愛は、命である。生かされていることが神の愛の証である。神の愛の証は命そのもの。だからこそ、命を粗末にしてはならないのである。
 神の愛は、恵みである。神の愛は、大地の恵み。生きる糧。人は、皆、生かされている。我々を生かしているのは、神の愛である。現代人は、傲慢である。自分が生かされている事実を忘れ、自分自身の力だけで自分は生きている、存在していると思い込んでいる。
 神の力、恵みなくして自分の力だけで存在していると豪語している。その結果、人間は、自分達の生存・存在すらも危うくしているのである。
 人は、神の愛を受け容れ、悔い改めないかぎり、早晩、滅びゆく事になる。もし仮に、人類を滅ぼす者があるとしたら、それは、人類である。人が滅びる理由は人にある。

 神を否定する者は、自らを神とする。

 これだけは、忘れてはならない。神は、人間を必要としていない。神は、神御自身の力で存在している。神を必要としているのは、人間である。丁度、親が子がいなくても生きていけるのに、幼子は、親が居なければ生きていけないように、神は、神御自身の力で存在できる。ただ、親が子をいとおしむのは、愛である。親の愛によるのである。同じように、神の慈悲は、神の愛より発する。だから、神を否定したところで、自分にとって何も得にもならない。滑稽なだけである。

 神の愛は、許しである。神の愛には、限りがない。どこから何処までが、許されて、どこから何処まで許されないのか。そのようなことはない。
「ここまではゆるすが、ここから先はゆるせないということがあれば、それは初めからゆるしてはいないのだ」(「ちくしょう谷」山本周五郎)
 神は、あらゆる事をお許しになる。許せなくなるのは、自分である。神は、あなたが自分を許すように、あなたを許される。だからこそ、あなた自身が、自分の過ちを認め、悔い改めなければ、許しは永遠に現れない。
 神はどのようなことでも許されている。人を殺すことも、盗みを働く事も、人を欺くことも、神は、皆、許されている。しかし、それを神が許されていることを知る者は、それをしないと、ドストエフスキーがっいている。
 そうだ、神は、許されている。許せなくなるのは、自分なのである。自分で自分が許せなくなるから、自分の行いによって自分で自分が許せなくなるから、自分の行いを慎み、また、自分の犯した罪を悔い改めなければならないのである。
 神の愛は、無限である。限りない。

 神の愛は、慈悲である。仁である。純粋に慈(いつく)しみ、憐(あわ)れむ心が慈悲である。憐憫である。物の哀れである。

 神の愛は、優しい。神の愛は、暖かい。神の愛は、厳しい。神は、自らの鏡。だからこそ、自分が優しい時は、優しく。自分が暖かいときは暖かく。自分が寛容な時は、寛容で、自分が厳しい時は、峻厳である。神は、世界を写す鏡である。神は全てを見透かしている。神を欺くとはできない。神を欺くことは、自分を欺くことである。結局、報いは、自分で受けることになる。

 神の愛は、癒しである。神の愛は、安らぎである。神の愛は和みである。人は、神の愛によって安心できる。神の愛は、労り(いたわり)である。神の愛に抱かれて、人は、永久(とわ)の安らぎを得られる。

 神への誓い。誓いは、神に対してのみ有効である。神以外の存在に誓いを立てたところで無意味である。神のみが誓いの後見となりうる。
 誓いを守るのも、守らないのも自分次第である。故に、誓いを破ったときの報いは自分が受けなければならない。神への誓いに背くことは、自分の誓いに背くことである。神の愛に背けば、自分の愛に背くことになる。

 現代人は、神を怖れなくなった。だから、誓いの効力が薄れてきたのである。神を怖れるからこそ、神の愛の力は発揮される。人は、神の前で誓った事を簡単に破る。その為に、自分達が不幸になる。神を侮ったからと言って神が報いを受けるわけではない。報いを受けるのは自分である。
 海を汚したからと言って神が報いを受けるわけではない。海の幸を得られなくなって、報いを受けるのは自分達である。神の恵みを得られなくなるのは、人である。神の畏れなくなっただけ、神の恵みを受けられなくなっただけである。人を幸せにするのは、神の愛、神の意志である。神の愛、神の意志を受け容れるか否かは、自分の意志である。

 結婚式に際し、人は、神前において神に永久(とわ)の愛を誓う。しかし、現代人の愛の誓いは口先だけだ。誓いを破っても一向に差し支えない。誓いを違えた時の補いについて、なにも誓わないからである。簡単に別れ、自分達だけでなく、子供を含めた人間を不幸にする。それでも一向に悔い改めることなく、同じ事を繰り返す。そして、愛が欲しいと叫ぶ。顧みて、自らが正しくなければ、どんな者に対しても懼(おそ)れる。それが、恥を知る者である。羞恥心、廉恥心を失った者は、誇りを失う。誇りのない者は、信を失う。かくて、世の中から信がなくなり、秩序は乱れるのである。信なくば、乱れる。秩序が乱れれば、暴力が横行し、やがて、巨大な暴力を招き入れる。それは、人々がおごり高ぶり、神の愛、神の力を侮(あなど)り、神への誓いを蔑(ないがし)ろにしたからである。

 神は、透徹した瞳で私を見ている。その瞳は、私の瞳。故に、逃れることができない。済んだその瞳の奥で、自分で自分を見ている。それが神の目である。

 神の愛を、純な気持ちで受け容れ。恐懼して悔い改めれば、幸せは、自ずと現れてくる。






          


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