信じ合うと言う事

 大切なのは、仲間さ。信じ合い、助け合える仲間さ。

 社会に出て会社勤めすると会社は誰のもの、株主資本云々なんて言うけれど、働いている人間にしてみるとそんなこと関係ないよ。
 資本主義どうのこうの、使用者概念がなんて難しいこと言ったって働いている人間にとってその職場が全てだもの。
 偉い人が、そんな理屈を言ったって、現実に働いている者にとっては、仕事や仲間が全てなんだ。会社がどうにかなってしまったら、生活が成り立たなくなる。だから、運命を伴にする仲間が大事なんだ。人間は、理屈なんかで生きているわけではない。
 働いて、生活の糧を得て生きているんだ。だから、信じ合い、助け合える仲間が一番なんだ。それ現実というものだ。
 会社が株主の物だというのならば、そこで働いている者は奴隷だとでも言いたいの。それが、資本主義の本質。だとしたら、資本主義は、奴隷主義に他ならない。自由主義経済を標榜するならば、株主の権利は、尊重するけれど、会社は株主の所有物とするのは、乱暴な話だ。
 一度就職したら、容易く仕事を変えられるわけではない。況や、十年も、二十年も続けた仕事、そうやって身につけた熟練の技術は、捨てられるものではない。その人の人生が凝縮された賜物なのだ。それを、時代に合わなくなったらいとも簡単に時代に合わせて転職すればいいと言う。それができなければ時代遅れだという。転職できない人間は無能だとも言う。そんなに簡単なものではないよ。人間性を無視している。人間は道具ではないんだ。
 長い間かけて営々として築き上げたものを頭から否定したら、その人の人生そのものを否定する事になる。情けがないじゃないか。
 人として、一人前の仕事をしようとしたら、最低でも三年ぐらいは一つの仕事を続ける必要がある。熟練を要する仕事ならば、下手をすれば十年、否、一生かけても到達できない境地がある。だとしたら、一つの仕事に一生をかけていく覚悟をするしかない。この仕事で生きたいこうと腹を決めるしかない。そうやって真剣に決めた仕事をお役ご免と切り捨てさせるのは、残酷だ。生半可な覚悟で就職するわけではない。人生を賭けて職を決めるのである。
 だから、僕は定年制というのは、残酷な制度だと思う。だって人生には、定年なんてないんだぜ。
 定年だからと言って人生をリセットなんてできない。六十を過ぎて、人生をリセットされ二十歳そこそこの人間と同じ次元で新しい人生を歩めなんて無茶苦茶な話だ。
 だから、愛社精神にも、責任感にも、賞味期間が決まってしまう。定年間近というか、定年を意識したときから、愛社精神も、責任感も発揮しようがなくなる。
 一年後に定年しようとする者が二年後のことを約束しようがないのだから・・・。自分が責任を持ったことを言えない以上、責任感が強ければ強いほど無責任なる。こんな残酷な話はない。
 自分の仕事は、その人の誇りや生き甲斐の源泉なのである。それを取り上げた上にそれまでの業績、実績を貨幣に換算し、清算してしまったら、どうやって生きいけと言うのだろう。だから、これから、認知症も鬱病も確実に増える。新しい事に挑戦するような気力も体力も失せたときに、身包み剥いで社会に放り出せば、これまでの俺の人生は何だったのかと答のない事に自問自答せざるをえなくなる。なんと残酷な話か。
 一度、雇ったら、その人間の一生、最後まで面倒をみる覚悟をすべきなんだよ。その上で、労働条件をどうするかとか、給料をどうするかを議論すべきなんだよ。じゃあなければ、結局、働いている人間だってやらずぶったぐりにならざるをえない。だって人情がないもの。働けるうちはもらえるだけもらっておこうという発想にならざるをえない。だから、金、金、金になる。最後には、人生観もモラルもおかしくなる。そう言う社会の仕組みになっているのだ。
 世の中の女性は、定年制度がない主婦よりもそういう社会の方が素晴らしいと思い込んでいるみたいだ。だから、出産や子育てという崇高な仕事を投げ出しても外へ出ようとする。愛情よりも金が大切なんだよね。突き詰めれば、結婚なんてしない方が良いという結論になる。だって、結婚なんて苦労ばかりが多くて、金にはならないからね。まあ、最近は、主婦にも定年制があるみたいだけれど・・・。親の面倒をみるなんてまっぴらな事さ。立派に施設があればそこに放り込んでしまえば責任を果たしたつもりになる。人情なんて欠片もない。厄介なだけである。親の恩なんて馬鹿げた妄想に過ぎない。
 でも、いくらお金を儲けたところで、孤独に死んでいくのでは意味がない。ここでまた溜息がでる。溜息がでるけど、俺のことは心配しないで、おまえの好きな生き方をしろなんて言っている。結局、死ぬときは一人なんだよね。
 建物が高級であっても設備が最新であっても人情、人の心が籠もった物でなければ、かえって虚しい。優しいがなければ生きいく喜びがない。少なくとも幸せな老後は送れない。
 ここで生きていくしかないと思えば、会社を良くするしかない。そして、最後は仲間さ。会社は、社員である限り、二十四時間、一所懸命社員の面倒を見続けている。事故があれば、すぐに飛んでいって事故処理から保険の手配までしてくれる。病気になれば、病院の手配から、お金の面倒までみてくれる。結婚した、子供が産まれたと言えばお祝いまでしてくれる。家の世話から余暇の世話までしてくれる。それなのに、今の世の中は、会社の奴隷になるななんて会社に感謝するどころか、邪険である。大切にするどころか、足蹴にしている。愛社精神なんて資本主義に毒された結果だと吹き込んでいる。しかし、会社を離れたらただの人以下になってしまう。第一、定収を失うのである。今の人は、皆、お金さえあれば、自分一人だけで生きている。生きていけると思い込んでいる。それこそが現代社会の病巣なのである。
 少子問題、老人問題は、制度と設備の問題だと思い込んでいる。そうではない、愛情の問題なのだ。愛情が欠落していることが問題なのだ。
 人間が生活の基盤を置いている世界なんて考えてみれば狭いものさ。大統領だって、王侯貴族だって日常生活を伴にしている人間の数なんて知れたものである。その狭い世界で人間関係を引きずって生きていくしかない。一度人間関係がこじれたら地獄さ。
 だから、昔の人は、義理と人情を尊び、信頼関係、仲間を大切にしたんだ。
 会社員である前に人間であるべきなんだ。そして、同僚や上司は、一緒に生きていく仲間なんだよ。だから、礼節が大切になるんだよ。結局、自分が幸せになるためさ。ギスギスした人間関係の中で生きていくなんて、人生をつまらないものにしてしまうもの。
 困った時に助け合っていける仲間作り、それが人生の基本なんだ。

 仲間や友達、夫婦に定年はない。大切なのは、一生ともにできる仲間さ。その仲間は、仕事仲間であり、家族であり、友達だよ。その仲間とどう付き合っていくか。それが一番大切なことなんだ。

 最後に、手をとり。
 「嗚呼、良い人生だった。幸せだった。」
 と言えるような仲間こそ最大の宝なのである。




        


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