義とは、道徳である。倫理である。人間として守るべき規範である。善の体系である。行動、判断の根本的規律である。
 義の根源は、自己善である。故に、義の本性は自己善である。

 義とは、基準である。
 義は、行動規範である。
 義は、道徳律である。
 義の素は、自己善である。

 法は、掟(おきて)・矩(のり)である。
 法は、定めである。
 法は、罰則である。
 法の素は、権力である。

 仁によって義は生まれ。仁によって義は、育まれ。仁によって義は、発展・成長する。仁は、義によって実現する。仁なくして、義はなく。義なくして仁は実現しない。故に、仁と義は一体である。

 仁によって義は形成される。仁は、義を育む。仁の力が弱いと義は健全に育まれず外部の圧力によって歪められる。法は、外からの圧力。法が正しく働く為には、自己善が確立されてなければならない。法と義は、お互いに補完し合うべきものである。しかし、義を支えるのは、法でなく仁である。なぜならば、義は、内面の規律だからである。仁なくして正義は行われない。仁なくして大義は現れない。

 仁義は、志の本である。仁と義か一体になった時、生きる目標が定まる。その兆しが志である。故に、仁と義は、志の大本である。
 仁義は、生きる礎。人の生きる道。志が定まれば、生きる指針が決まる。故に、志は、人生の基盤、礎である。志すところの大本が仁義であるから、仁義は、生きる為の礎である。
 生き方が定まれば、自ずと自制心が生じる。故に、仁義は、人倫の礎。人の道である。義とは、道徳、道義である。
 道徳、道義が社会に浸透すれば、世の中は、自ずと治まる。法と秩序が確立できる。世の中、自制心によって治まれば、平和が実現する。自己善と社会正義が一体になった時、人は、自由になる。強制力、強要によって秩序が保たれるのではなく。自発的意志によって世の中の秩序が保たれるからである。その時こそ、愛が実現する。自由が実現する。真実の愛国心が芽生えるのである。だからこそ仁義は、国家秩序の礎である。
 世界を平和にし、国を善くし、家族を幸せにして、自己実現をするためには、仁義を護らなければならないのである。故に、仁義は、国の礎。国の道なのである。仁義の究極の姿は、忠義である。仁義が目指すところは、自由である。仁義の発露は、愛国心である。

 義を見てせざるは、勇なきなり。義は生きる礎。生きる意義。故に、義が廃れれば、人は生きる道を見失う。生きる道が失われれば、人倫を失う。故に、人は、義のために命をかける。義が危機に瀕した時、何もしないのは、ただ勇気がないだけである。小心なのである。人は、それを臆病という。だから、人は、臆病者と誹られる(そしられる)のを死ぬほど怖れるのである。人倫が廃れれば、名誉は守れない。人としての誇りを失うからである。大切なのは、義侠心である。義がなければ人の和は保てない。相手に対する思いやりが実現しないからである。故に、義を支えるのは、仁である。仁は愛である。愛なくして義は成り立たない。
 世の中の義か廃れれば、国は保てない。国を愛する気持ちが実現しないからである。公のために、自制しようとする意志がなくなるからである。そうなると、国の秩序は保てない。法だけでは、国も秩序は保てないからである。国民が、護ろうとする意志のない法は、護れない。国の秩序が失われ時、国は滅びる。仁義なき方は、屍である。魂がない。大義、正義なき国は、保たれない。滅びゆく運命にある。

 公正・公義というのは、公の正義である。つまり、国は、公の正義が明らかでなければ成り立たない。つまり、公義は、建国の理念である。公正は、法の本である。公の正義が明確でなければ、法は成り立たない。国民国家のおける国家理念は、国民の意志と契約である。公正は、契約の理念である。公義の大本は、自己善、則ち、義である。国民国家において、公義・公正は、大前提である。公義・公正は、契約によって成り立ち、法によって保障される。則ち、民主主義は、法による統治、法治主義でなければならないのである。民主主義において義は、礎である。

 義を支えるのは、浩然の気である。浩然の気は、仁なり。海に山に満ち満ちて爽やかにして鮮烈なる気。高原の冷気。心身を洗い清め。諸々の罪ケガレを洗い清め。あらゆる障害や迫害に立ち向かう勇気を与えてくれる。穏やかで広々とした気持ち。
 何事にも囚われず。伸び伸びと義のために生きよう。それは、万民に対する愛が為せる業。それが仁である。博愛である。慈悲である。天命である。
 我一人、深夜、沈思する。されど満天の星に恥じることなし。ならば、我一人でも往かん。正義・大義を実現するために。

 その気たるや、至大至剛(しだいしごう)、直を以て養いて害(そこ)なうことなければ、則ち天地の間に塞つ(みつ)。その気たるや、義と道に配す。是れなければ飢うるなり。是れ義に集(あ)いて生じる所の者にして、義襲いてこれを取れるに非(あら)ざるなり。行いこころよからざるあれば、則ち飢う。我、告子は未だ嘗て義を知らずと曰えるは、そのこれを外にせるを以てなり。(孟子)

 自ら(みずから)反(かえり)みて縮(なお)からずんば、褐寛博と雖も(いえども)吾懼(おそれ)れざらんや、自ら反みて縮ければ、千万人と雖も吾往かん。(孟子)

 自分を顧みて、自分の言い分が間違っていると悟ったら、日頃、馬鹿にしていたり、軽蔑しているような者でも畏(かしこ)まって自分を改める。しかし、自分の信念に間違いがないと確信したならば敵は、幾千人いようとも、吾一人往かん。義とは、そのようなものである。

 義は礼によって現れる。礼義である。克己復礼。礼の源は仁義である。義は、礼によって形を持つ。礼は義の表現である。故に、礼の根源は、仁である。愛である。
 義は行動規範である。自己の行動を律するものである。自己の行動を抑制するのが礼である。自己の行動を触発するのが仁である。故に、仁と義と礼は、一体である。仁義なくして礼はない。仁義なき礼は屍(かばね)である。ただ、醜いだけである。

 大義は、人の道の根本である。大義が廃れれば、人心は乱れる。人心乱れれば、礼節は失われる。礼節が失われれば、秩序は保てない。秩序が保てなければ、国は治まらない。故に、大義は、国家の柱である。仁愛・浩然の気が世に充(みつる)時、大義は、この世に現れる。大義がこの世に現れた時、国家の安寧は盤石となり、恒久的平和が実現するのである。

 志せ。






                    


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