信は、人間関係の基本である。

 約束を守る。嘘をつかない。人を欺かない。人を裏切らない。これらは、人間として最低限守らなければ、徳目である。そして、信の基礎を形成する徳目でもある。信の根本は、正直である。

 信は、安心・安定の根源である。最愛の人が、自分を裏切るのではないか、騙しているのではないとかと疑りだしたら、同じ屋根の下で暮らせなくなる。今の紙幣が、明日ただ紙切れになってしまうかも知れないと心配しだしたら、安定した生活など望めない。乗っている車がいつ暴走するか解らないとしたら、オチオチ車に乗ることもできない。誰も自分を護ってくれないと思い込んだら、怖くて外にも出られなくなる。この大地が、ある日突然裂け、天が落ちてくるのではと考えはじめたら発狂しかねない。人を信じるから、国の秩序を信じるから、明日を信じるから、今日を安心して生きていけるのである。信こそ、人の心に安らぎを与えてくれる。
 信は、それがある時は、当たり前なことだが、一度なくなると一時たりとも安心して生きられない。空気のような存在である。それだけ大切なものである。信がなければ人は生きていけない。

 信は、人間社会の基本である。信は、人間社会の基礎である。信がなければ人間の社会は成り立たない。信なくば立たず。

 義がなければ信は成立しない。礼がなければ信は成立しない。道徳心がない者を信用することはできない。自制心がない者を信用することはできない。無礼な者を信認することはできない。なぜなら、礼は、義の形・姿勢だからである。
 信は、人と人との関わり合いによって生じる。相手が信用できなければ、人間関係は成立しない。相手の価値観を信じ、認め、許せなければ人間関係なんて結びようがない。信がなければ、社会は形成できないのである。社会には、信認が必要なのである。信があってはじめて、法も制度も成り立つ。相手の義(価値観・道徳)を信じるから人と人とは安心して関われる。法や制度、国家は、それを保障しているに過ぎない。しかし、国民に、最初から法や制度を守る意志がなければ、法や制度は維持できないのである。故に、信の根本は、義である。また、義は信に裏付けられて実になる。信は、人倫の基本なのである。

 人間は、禽獣(きんじゅう)とは社会を形成できない。それは、義を分かち合えないからである。義を分かち合えないが故に、信用できないのである。故に、人間以外の動物とは、信を土台にした社会を成立させることはできないのである。かつて、白人は、有色人種を奴隷とした。それは、白人が、有色人種と義を分かち合うこと、共有することができないと考えたからである。それは、白人と有色人種の信じるところが違うと考えていたからである。今日、そのような隔て(へだて)はなくなった。それによって、人類は、世界を共有することが可能となったのである。さもなくば、いまだに、白人と有色人種は、不倶戴天の敵として争い続けなければならない。義を分かち合えなければ、生きるか死ぬか、いずれか一方しか生き残れない関係しか築けないからである。信こそ、平和の礎(いしずえ)なのである。

 人と人との関わりを形にしたのが礼である。儀式典礼である。形に囚われる必要がないが、礼を重んじない者は、人と人との関わり合いを軽んじる者である。そのような者に信頼関係は築けない。郷にいれば郷に従え。それが礼である。たかが挨拶。されど挨拶である。挨拶一つ満足にできなければ、人に信用されない。信の根本は、克己復礼である。

 信用のおけない人間は、結局社会から隔離せざるをえない。それが法である。だからこそ、法を成立させる根拠は、信に基づく正義なのである。

 信のない社会は、虚偽の社会である。嘘(うそ)偽り(いつわり)の世界である。信のない社会には、実がない。自分の力以外に実体がない。自分の力しか頼ることができない世界である。無法の世界である。基本的な人と人との関わり合いを否定した社会である。暴力によって支配された世界である。相手に対する思いやりや尊敬を失った世界である。裏切りや背信の横行する世界である。恐怖と狂気に支配された世界である。妄想の世界である。人を信じられない世界である。義のない世界である。安らぐことない、落ち着かない世界である。
 信頼とは、他者の義を信じ、頼ることである。他者の義を信じられなければ、信頼関係は生まれない。信頼関係が成り立たなければ、人間関係、則ち、社会は、保てない。他者の義とは、他者の自己善である。自己の義と他者の義を掛け合わせたところに、社会正義がある。この社会正義こそ、社会、人間関係の基盤である。

 民主主義国家では、国民は、国家を信じるから権力を与えている。この信頼を恐怖に変えて社会を支配しているのが、専制国家である。故に、専制主義には、義がない。徳がない。

 約束、契約、法といった社会の基盤は、信の上に成り立っている。信がなければ、約束も、契約も、法も成立しない。
 信がなければ、無秩序・無法な社会になる。国家や社会正義は実体を失う。つまり、国家や社会は土台から崩れ去ってしまう。
 どんな取引も契約も法も相手を信じなければ成立しない。どんな社会も人間関係も信がなければ始まらないのである。

 信は、自己と他者との関係の中で生じる働きであり、人と人との基本的関係を形作る働きである。人間関係とは、他人の価値観、義を認め、尊重し、信じ合うことによって成り立っている。相容れない価値観の人間とは、社会を形成することは不可能である。一方において他者の義を認め信じ、もう一方において自己の義を信じ守ること、それが信義である。

 信の根源は、友愛、博愛である。友は、人生の宝である。友との関係は、信でしか成り立たない。その本質は友愛である。
 信の究極の姿は、忠恕である。則ち、愛である。相手を真心から思いやる心である。仁である。

 友に疑われることを恥じる。愛する人に疑われのは哀しい。友情も愛情も信なくして成り立たない。信とは、絆(きずな)なのである。
 李下に冠を整(ただ)さず。信は、廉直(れんちょく)を喜ぶのである。信は、正直と誠を求めるのである。信は、純潔と素朴・朴訥を好むのである。飾り気のないものを望むのである。それらは、隠しようのない姿だからである。
 反対に疑念を嘘を憎むのである。脅迫や恫喝、騙すのを嫌がるのである。見栄や虚栄心を遠ざけるのである。強欲、どん欲を嫌うのである。巧言令色を好まないのである。裏切り、背信を許さないのである。強要や、強制を避けるのである。これらは、疑われるからである。信頼は、力ずくでは築けない。本心ではないからである。友情は、暴力からは生まれないのである。 
 友の前に飾るな。言い訳をするな。清廉潔白こそ信の道である。純であれ。

 信用を築くためには、長い間の血の滲むような努力が必要だが、信用は、一朝にして失われてしまう。
 信用を築くというのは、日々の研鑽・修練である。毎日毎日の積み重ねである。それは、一種の修業である。生き様、生き方である。信念である。行き着く所は、礼である。克己復礼。一寸した気の緩みや慢心から信用は失われる。片時も休むことは許されない。しかも信は、相手が居て成り立つ。相手が裏切られたと感じただけで信頼関係はもろくも崩れ去ってしまう。一度失われた信頼は容易くは回復されない。信用を取り戻すのは、並大抵ではない。下手をすると孫子の代まで祟(たた)られるのである。
 信を保つというのは、祈りにもにている。毎日、毎日、祈るように行いを慎まなければならない。それが信の厳しさである。しかし、その果てにあるのが、自己の完成である。

 信の究極の姿は、信仰である。信仰は、忠恕である。忠誠である。
 信じる者を持たない者は、救われない。人は、自分を超越した何者かを信じ受け容れることによって自己の救済が約束される。なぜならば、自分で自分を許すことが難しいからである。明日を信じるからこそ生きていける。明日を信じられなければ、片時もじっとしていられない。

 人間不信が現代社会を覆おうとしている。それは、人間が、人間としての道義心を失いつつあるからである。道義心、則ち、道徳や義侠心がなくなれば、何を頼って生きていけばいいのか解らなくなる。社会への信頼を喪失するのである。愛する者を信じる事すらできず、ただ、不安な日々にすがるようにして生きていく。
 おのれの悦楽のために、自分の責務を忘れて妻子を捨て。それを純な愛だとうそぶく。不倫。浮気。心中。不純異性交遊。援助交際。幼児虐待。育児放棄。子捨て。蒸発。自殺。そこには、道義心のかけらもない。美しくもない。裏切りである。信が廃れた証拠である。信なくば立たず。子供は、親が自分を見捨てないと信じるからこそ生きていけるのである。子供をどのような形にせよ、捨てるのは、言い訳のしようのない背信行為である。
 もともと女性も子供も老人も社会的弱者だった。それを守るべき立場の人間が家庭を捨てるという事自体が信を廃(すた)らせる原因になっている。それを、正当化する義は何処にもない。愛する者から捨てられ、取り残された者の恐怖、絶望感、喪失感を感じた時、最も卑劣な背信行為である。
 愛の本質は、欲情ではない。欲と愛との見分けがつかなくなったのが現代である。見境がない。欲しい物ならば、どんな事をしても手に入れる。金さえ在れば何でもできる。金のためならばどんなことでもする。そのような拝金主義が横行している。しかし、それは、信ではない。それでは信が成り立たない。仁も義も礼も欠けているからである。信愛がないからである。

 人は、信が危うくなると疑心暗鬼になる。疑り深くなる。不安になる。それは、人間の精神を根本から狂わせてしまう。猜疑心。嫉妬。妬み。憎悪。怨恨。こういった感情は、信が失われた時、生まれる。信頼が裏切られたときに生じる。故に、信は、愛と同じくらい重要な働きなのである。

 信が成り立たない社会は、殺伐とした社会である。荒廃した、荒涼とした社会である。愛のない世界である。無法と暴力が支配する世界である。
 信の根源にあるのは、友愛・博愛である。

 信は、美である。






                    


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