エピローグ


 日本人が取り戻さなければならないのは、誇りと自信である。
 日本人は、近代化する過程で多くのものを失ってきた。確かに、近代化によって日本は物質的に豊になった。また、民主主義や個人主義、自由主義を学んだ。その反面において、有色人種、黄色人種、アジア人としてのアイデンティティを喪失してきた。
 日本人は、白人にはなれない。この歴然とした事実を認めなければならない。そして、近代という歴史が、人種差別、奴隷、植民地主義といったものの上に成り立ってきた事を忘れてはならない。差別された側、植民地化された側の人間に日本人は、属していることを忘れてはならない。

 明治維新とは何だったのであろう。
 日本人は、開国を近代化への道を歩みはじめた。それまでの歴史や伝統を切り捨て欧米列強の文物を取り入れてきた。文物どころか、その考え方、思想をも取り込み、いつの間にか、自分達が、黄色人種である事も、アジア人であることも忘れてしまったような気がする。
 アジア人、有色人種、黄色人種としてではなく、日本人として欧米列強に伍していこうとした事である。ここに今日まで続く根本的な問題点が隠されている。

 日本人には、有色人種、黄色人種、アジア人という自覚がない。自分達も差別され、一時的とはいえ植民地化されたという事実を認めようとしない。自分達は、特別なのだと思いこんでいる節がある。名誉白人などといわれて喜んでいる。

 黒髪を茶髪に染め、変な横文字が街に氾濫し、変なアクセントで英語を乱発する者が横行する。和製英語という言葉がある。日本にしか通じない英語の事である。
 そこまでして、日本人であることをやめたいのかとすら思わされる。日本人であることを卑下しなければならないのか。

 涙ぐましいまでの努力をして白人になろうとしている。また、なろうとしてきた。それが戦前日本を有色人種の中でタイを除けば唯一植民地化されなかった、また、欧米列強の侵略を受けなかった国家として存続できたのである。
 しかし、どんなに努力しても日本人は、白人にはなれない。白人になろうとすればするほど、自分達が白人にはなれない事を思い知らされるだけである。白人でもなければ、非白人でもない。世界の孤児となりつつある。
 白人でも非白人でもないその事が、アジア人同胞の反日感情の根にあるように思えてならない。

 有色人種、黄色人種、アジア人、非キリスト教国としての誇りと文化を共有する。有色人種、黄色人種、アジア人にも誇るべき文化と歴史がある。他人種、他民族を蔑み、見下したり、或いは、自分達を卑下し、卑屈になる前に、自分達に自信と誇りを持つことである。その自信と誇りは、大いなる愛を生み出す。許しをもたらせる。そのとき、世界は一つの愛に包まれるのである。

 白人文化を否定する必要はないが、有色人種の文化を卑下したり蔑む必要もない。
 我々は、日本人である。有色人種、黄色人種、アジア人である。
 日本人としての誇りが有色人種、黄色人種、アジア人としての誇りとなり、有色人種、黄色人種、アジア人としての自信が、日本人としての自信と一体となった時、はじめて、日本人は自分達の居場所を確保できる。

 大いなる愛を考える時、同じアジア人の間に吹き荒れる憎悪の嵐に立ち向かわなければならない。我々は、なぜ憎しみ会わなければならないのか。愛の本質は、自己とのアイデンティティにある。それを突き詰めていくと日本人である事、アジア人である事、黄色人種である事、有色人種である事、そして、人間であることに行きつくのである。自分を愛する事は、その根源において森羅万象全てを愛する事につながるのである。

 人間として、有色人種として、黄色人種として、アジア人として、日本人として誇りと自信を取り戻した時、本当の平安と平和が訪れる。それが愛である。 


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