プロローグ



 現代人は、愛というと、男と女の愛に限定し、欲とつなげて、ドロドロの愛欲にしてしまう。しかし、愛は、何も男と女の間にだけあるとはかぎらない。しかも、愛と欲とは、本質が違う。欲望は、生理的、物理的なものである。愛は、存在そのもから発する想い、願望である。欲望は、生きる為、子孫を残すために不可欠なことであり、それはそれで神聖なものである。しかし、生き残るという事は、弱肉強食、食うか食われるかの戦いや生存競争を意味する。それに対し愛は、純粋な想いであり、願いである。
 最も、本源的な愛は、神の愛である。神の愛は、無償、無上の想いである。この世に存在する全てのものに分け隔てなく注がれいる。

 神の愛は、自己を通してこの世に顕現する。

 自分は、誰からも愛されていないと思いこんでいる者がいる。そのような者は、自分すら愛せない。自分すら愛せないのだから、この世に愛なんてない。誰も、心から他の人を愛せやしないと思いこむ。彼等は、神の愛を知らないのだ。大体、愛は、受け身なものではない。人を愛さなければ、愛の実相なんて解らない。だから、人を愛せない者は、神の愛を感じないのである。
 この世に存在するという事は、神の愛が既にそこにあるという事である。人間は、神に愛されて生まれ。神に愛されて存在する。この世に存在する者で、神に愛されていない者はない。故に、神の愛は、本源的な愛なのである。

 生まれた時から、神の愛は、我々の頭上に注がれている。我々が、この世に生を受け存在している事自体がその証である。いかなる境遇に生まれようとも神の愛は、既に存在している。それを信じようと信じまいと、その愛は現にある。問題は、それが信じられるか否かである。信じる者は救われる。信じられぬ者は、惑い迷う。

 神の愛は、自己の存在そのものにある。存在自体が、神の愛を実体化している。だからこそ、愛は愛する事。愛する事によって神はこの世に姿を現し、神の愛を実現する。
 自己は、神が愛をこの世に実現するための母胎。神は、自己の愛に宿る。神の愛は、惜しみなく与えられる。故に、真の愛は、惜しみなく与えるもの。愛すれば愛するほど、愛は純化され。実相に近づいていく。自己は、神の恵み。神の祝福。自己は、愛の器。神の愛は、自己を通してこの世に実現する。

 神の愛は至上の愛。神の愛は全きもの。愛は、人から奪い取るものではない。愛は、人を傷つけるものではない。
 故に愛は与えるものなのである。愛は、男と女の間のみに成立するものではない。森羅万象、この様の全ての存在に宿るものなのである。

 欲を否定したりはしない。しかし、愛と欲とは、一緒くたにしてはならない。愛と欲とは別物なのである。欲は、生きる為に必要なもの。愛は、生きる真実なのである。






                    


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