自     愛



 自分を愛せぬ者が、誰を愛せるというのだろう。自分を愛せない者は、自分の人生すら愛せはしない。況や、他人を許し、愛するなんて出来はしない。自愛こそ、自分の人生をよりよくするために不可欠なことなのである。

 自分を愛する事と、自惚(うぬぼ)れることは違う。ナルシストというのは、自己を愛する者とは違う。ナルシストというのは、一つ間違うと自己否定につながる。
 自分を愛すると言う事と、独善とも違う。我が儘や独りよがりとも違う。
 自愛とは、在るが儘の自分を在るが儘に受け容れて慈しむことである。大切にすることである。自分を美化することでも、卑下することでもない。

 自分を愛せよと言っても、人間は、生まれてくる時、自分で選べるものはほとんどない。ほとんどと言うどころか全くない。
 金持ちの息子に生まれるか、否かも。美人か、否か。黒人に生まれるか。白人と生まれるか。黄色人に生まれるか。何一つ自分で選べるものはない。性格や能力すら決められない。父母や兄弟姉妹すら予め決められているのである。国も、場所も、生まれる時だって選べない。自分の顔ですらあたえられてものに満足するしかない。ただ与えられたものを黙って受け容れるしかないのである。

 しかも、一度生を受けると、生まれた時に、与えられたものの影響を、死ぬまで受けなければならない。考えてみれば、理不尽な事である。
 生まれた時、一生を左右するような決定的な事は全て決められている。だからこそ、自分を愛する事が大切なのである。

 人の争いの種は、この生まれてきた時に与えられたものに発する。人種問題、階級問題というのは、典型である。
 実力主義といったところで、実力すら生まれた時に与えられた素地・能力を土台に成り立っている。

 大概の人間にとっては、自分の望んだものとは違うものを与えられて生まれてくる。自分が望んでもいないものによって成り立つ自分をいかにして愛せよと言うのか。恵まれた環境、資質、境遇であったとしても不満のない者は少ない。逆に、恵まれすぎている事が、不満の種にすらなる。

 多くの人は、自分に与えられた境遇に不満を持ちながら、それを積極的に受け容れよりよい方向に向ける努力を怠っている。自分なんてと自分の境遇を呪いながら、自分が生かされていることに感謝しようとすらしない。
 こう考えると、私は、不思議な思いに捕らわれることがある。多くの人は、自分の境遇に不満を持ちながら、今の自分を絶対視している。

 例えば、差別も生まれた時の境遇によって決まる。しかし、差別するのは人であって神ではない。
 人を差別する側の人間も、もし仮に、自分が差別する側でなく。差別される側に生まれたとしたら、そう考えた時があるであろうか。
 差別する側に生まれるのか、差別される側に生まれるかを、自分の意志では、選択できないのである。ただ、生まれた時の境遇によって決まった過ぎない。人が人を差別する謂われはないのである。
 それなのに、人は、なぜ、差別するのであろうか。それは、人が人を差別する理由は、自分で自分が愛せないからである。今の自分に満足していないからである。自分に対する劣等感や嫌悪感の裏返しなのである。そして、今の自分を絶対視しているからである。

 逃れようのない自分の境遇を呪いながら、今の自分の立場に固執して他人を嘲り、また、妬む(ねたむ)。これでは、幸せになりようがない。在るが儘の自分を愛し、他人に寛容になる。その瞬間、真実の愛が始まる。

 誰が見ても羨ましい(うらやましい)ような境遇に生まれながら、不幸な生き方をする人は沢山いる。反対に、絶望的な境遇から成功者になった者達も沢山いる。いいや、何不自由ない生活を送っているのに不平ばかり言っている者もいれば、何もないのに満ち足りている者もいるのである。

 幸せであるか否かは、自分の意識の内にある。ならば、幸せというのは、自分を愛せるか、否かにかかっているからである。

 自愛の対極にあるのが、自虐、自暴自棄、自滅、つまり、自己否定であり、その究極が自殺である。

 自分を否定したところで何も解決はしない。深い闇の底に堕ちていくだけである。なぜならば、自己は、全ての存在の前提だからである。望む、望まぬ、好きか嫌いかに関わらず。自己は、全ての認識の前提である。
 自分が父母の存在を否定しても無意味である。父母を否定する事は、自分の存在をも否定する事だからである。
 自分の存在を否定したところで、実在・実存は変わらない。観念遊びに過ぎない。堂々巡りになるだけである。出口のない迷路に彷徨い込むだけである。
 自分は、自分。だからこそ、幸せになれる。自分が自分でなければ、自分の幸せを得ることはできない。だからこそ、在るが儘の自分を在るが、儘に受け容れて愛する以外にないのである。自分を愛する事ができた時、自分以外の者も愛することができるようになるのである。そこから愛は始まる。自分を否定しているかぎり、愛の実相は現れない。

 愛の逃避行・心中・不倫と愛するが故に生きられないと自虐的、自滅的恋に生きようとする者達がいる。しかし、それを愛というには、憚(はばか)れる。
 人を愛すると言う事は、相手も自分も生かすことである。相手を殺し、自分も殺す。伴に奈落の底に堕ちていくような恋を愛という訳にはいかない。
 自暴自棄な生き方には愛はない。それは、一時的な欲情に過ぎない。

 人は、愛する者を妬き、妬み、疑り、嫉妬する。それは、愛するが故にであるが、愛故にではない。愛は、諸々の想いを焼き清め、純化する。愛するが故に、妬み、嫉み、疑り、人と人とを背かせ、裏切らせ、争わせ、憎しみ合わせる。しかし、それは、純粋の愛ではない。愛が燃焼できないが故の惑いである。
 愛は、尽きぬ情念、欲情を燃やし尽くし、焼き尽くした後に訪れる清浄。許しであり、癒し。人は、愛するが故に、惑い。愛故に救われる。
 故に、愛は、献身。愛は、本来ストイックなものである。愛するが故に、愛する者のために、自制し、抑制し、我慢する。それが愛である。つまり、愛の力が生み出すのは、自制心であり、抑制心であり、モラルであり、許しであり、寛容である。故に、愛は、モラル・救済の根源。だから、愛の力が愛する者達を護れるのである。愛する者は、愛する者達の為に身を清め、修める。それが、修身である。
 修身は、愛と道徳の根源なのである。愛と道徳は、背反するのではなく、融合する。一体である。故に、自己善に反するものは、愛ではない。身を修められぬ者に愛はない。故に、愛は修身。愛は規律。

 自分の一生は、自分に左右される。在る意味で自分が全てなのである。この自分を否定してしまったら、人生そのものの意義、生きることの意義を失うことになる。それを突き詰めたところにあるのが、自虐であり、自滅であり、自殺である。

 心なき衆生に愛はない。心なき者は愛する事はできない。自己のない者には愛はない。自虐者や自暴自棄な者は、人を愛することはできない。自分をいたぶるように、他人をいたぶり、社会をいたぶる。往く先は無間に続く心の闇である。

 ナルシストも自分だけしか愛せないとしたら、一種の自己否定である。
 自分は、他者との関係の中で認識される。他者との関係が喪失したら、自己の存在そのものも喪失する。
 しかも、人は、生まれながらに時間に支配されている。今の自分の姿は、永遠に不滅ではない。本来自己の存在は、存在(生命)そのものにある。外見(容姿・肉体)は物理的な物であり、二義的な物にすぎない。その二義的な物によって存在そのものを本質を見失うことは、自己否定につながる。
 古来、美人は、自分の美しさを保つために、並々ならぬ努力をする。拒食症のように生命に関わるような状況にもなる。そこまでいくと、自分の美によって自分を否定している。自虐・自滅、自暴自棄の一種に過ぎない。自殺行為である。
 
 在るが儘の自分を受け容れ、在るが儘の自分を愛する時、往くべき道が開けてくる。自分を愛せなければ、自分の内が空洞になり、ブラックホールのように、自分自身を呑み込んでいく。
 在るが儘の自分を愛する時、父母を敬い愛し、古里を愛しみ(いつくしみ)、国を愛おしむ(いとおしむ)心が芽生える。そして、神に感謝し、崇める(あがめる)心が生じる。その時、世界は、斉一になり、平和が訪れ、真実の愛は成就する。全ては自愛に始まる。愛こそが世界を一つにできるのである。
 先ず自分を愛しなさい。自分とは、神が、あなたに、贈られた最高の贈り物だからである。






          


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