悌は、優者に対する敬心である。礼である。自分より優れた者を認め、敬う心である。尊敬心である。優れた者に恭順たれと言う事である。素直に認めることである。悌の基本は、実力である。
 悌の本質は、相手の実力を認め、自分より優れたところが在れば、素直にその指導に従う事である。優れたところが在れば、それが、年下でも、後輩でも、部下でも、子供であったとしても素直に従うそれが悌である。

 事の正否・善悪・是非に、新旧・老若・男女の別はない。人の優劣を見極める基準に、先天的な要素、越えられぬ要素、つまり、動かしがたい要素にするのは、社会を硬直的にする。人種や家柄、続柄によればそれは、差別になる。人は、能力や実力によって測られるべきである。
 才能、知識、技術、経験、実績、意欲といった能力や功績による評価が為されないと社会の発展は損なわれ、世の中は停滞する。なぜならば、社会の活力は、一人一人の向上心にあるからである。いくら努力しても自分が良くならない、それも目に見える形で良くならないと人は、自分を磨く動機を失う。動機とは、行動を触発する原点である。動機が失われれば行動は、触発されない。人々が行動に移さなければ、社会の活力は失われていくのである。

 悌とは、先輩や先人の教えに従順であれということである。翻って言えば、自分より優秀な者に従順たれと言う事である。

 悌の基準は、優劣である。自分より優れたものに素直に従う事である。以前は、優劣の座標軸は、年齢のみであったが、本来は、いろいろな座標軸を組み合わせて考えられるべきものである。

 長幼の序というのは、年齢だけを座標軸として序列をつけたものである。しかし、年齢や家柄は、努力しても越えられない基準である。人間の生き方や努力によって越えられない基準に囚われると社会は、硬直的となり、向上心が失われる。

 悌は、単純に年長という基準だけで推し量ることはできない。悌は、自分よりも優れた者を素直に認め、その教えに従順である姿勢を言うのである。年齢だけを基準にしては、悌の本質は理解できない。ただ年長の者は、また、先輩は、少なくとも自分より経験が豊富であることは間違いない。そのことだけは、忘れてはならない。そのことだけでも敬意を払うのに値する。だから、基本的に長幼の序が礼の基礎となるのである。

 平等と同等とは違う。平等とは、自己の存在に基づく概念であり、同等というのは、対象の扱いに対する概念である。人間は、自己という存在において平等なのである。しかし、その扱いは、前提となる条件や環境によって差違が生じるのは必然的結果である。公平は、平等、同等とは違う。人に対する処遇、評価は、能力、実績、役割、仕事の内容、立場、条件、環境、需給によって差が生じるのは当然である。第一、処遇や評価は、組織、社会に付随して生じるものであって自己の存在から派生する属性ではない。
 この様に、人間の評価位置づけは、複数の座標軸を必要とする。しかも、線形関係ではない。さらに、仕事の内容も、質と量に分解される。仕事の内容の質も、難易度、危険度、熟練度という基準で測られる。されに、重要度や必要度でも測られる。また、肉体労働か、技能労働か、知的労働かによっても変わってくる。この様に、悌は、複合的、構造的である。単純な基準で単一的に規定できるものではない。

 悌は、人間関係を前提としている。悌は、人間関係を体系化した組織、社会の中における位置付けに由来する。公平というのは、この人間関係を規定する座標軸に対して対等に扱っているかの概念である。悌にとって公平は、基本である。公平でなければ、悌は成立しない。

 悌の本質は素直さである。人間の心には、妬みや嫉みの気持ちが潜んでいる。狭い社会では尚更である。それが人間関係の諍いをうみ、人と人との間をささくれ立ったものにしてしまう。優秀な人間に対する素直な尊敬心は、それだけでも称賛に値する。

 それは、常に、自己を研鑽し、学ぼうとする姿勢から生まれる。師は、何処にでもいる。自分より優れた者に出逢うことは、無上の喜びである。自分より優れた者と一緒に仕事をする事ほど幸せなことはない。自分より優れた部下を多くもつ事は、名誉なことである。それは、人の話に耳が順う(したがう)ようになる。それは、民主主義の根本でもある。為政者が国民の徳を認められれば、自ずと素直に国民の意見を聞くようになり、その意志に順うようになる。故に、悌は、民主主義の根本である。
 師への従順、素直な気持ちが悌である。師は何処にでもいる。それに、師は、年長者とはかぎらない。人、皆、師である。尊敬心が在れば、誰からでも、何にからも学べる。尊敬心がなければ、耳が逆らう。誰からも学ぶことができない。

 自分の力を誇示し、驕慢、傲慢、慢心は、悌心を遠ざける。相手の力を認めずにあらがい、逆らい、楯を突くのは、自分の成長をも阻害する。士は、おのれを知る者のために死すである。相手を正しく評価することができれば、相手を動かすことができる。真の友情は、お互いを尊重、尊敬し合うことによって結ばれる。良きライバルは、お互いの力を認め合いながら競い合う。
 良き人間関係は、敬心より生じる。悌は、その敬心の源である。そして、悌の根本は、友愛、師弟愛である。道義心である。仁である。

 優れた業績や実績を上げていながら、ただ、年が若いから、出自が悪いからと言って認められないような社会は、発展しない。発展しないどころか乱れの本である。自分より優れたところを認め合い、助け合えれば、乱れは生じない。たとえ生じても直すことができる。

 人から何かを学ぼうとしたら、謙虚な気持ちがなければならない。素直な気持ちにならなければならない。
 人は、自分の限界を知らなければならない。人は、自分の弱点、欠点を認めなければならない。人は、自分の過ちや間違いに素直でなければならない。人は、自分で何でもできると思い込むべきではない。人は、一人では生けていけないと自覚するところに悌が在る。人が自分より優れた者に、素直に従順に従う事ができないから惨事が起こるのである。
 人を認めることのできない者は、人を受け容れることができない。人を受け容れることができない者は、人と許し合うことができない。人と許し合うことができない者は、人と信じ合うことができない。人と信じ合うことができない者は、人と愛し合うことができない。愛を知らない者は、幸せにはなれない。絶望的な孤独の世界に生きるしかない。悌とは、人と認め合うことである。それが始まりである。
 悌とは、人の教えに素直な気持ちである。悌とは、順なる働き。素直な心である。朴訥・純朴な生き方である。悌の根本は、恭敬である。態度である。礼である。

 結局、最後には、徳が大切になる。徳とは、人の生き方の根源である。徳を極めることは、全ての手本となる。故に、悌の行きつくところは徳である。






                    


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